ヤンキー自我と悶々Time

わたしは昔からネガティヴ思考と自己否定が激しいほうだと思う。"みんな"のように"ちゃんと"できない自分を"恥ずかしい"と思っていたようだ。そしてなぜか"恥ずかしい"は"死にたい"と直結した。ダメは自分は死にたいほど恥ずかしく、そんな自分は死ねばいいと心の中で何度も自分を追い詰めてきたような気がする。

数年前まで何かに失敗した記憶が蘇るたびに、ヤンキー漫画の登場人物のようにわたしの胸ぐらを掴み「お前なんかいらねぇんだよ、はよ死ねや!」と過去のわたしを脅しまくる自分がいた。結構な頻度でヤンキー自我は登場していて、表面的な意識とこのヤンキー自我は区別がつかないほど同調していた。
ヤンキー自我は過去の記憶だけではなく、現実の失敗にも登場し「あーあ、こんなとこでこんな失敗して、いい年して見てるほうが恥ずかしいわ!」と嘲笑う。そのことがまた失敗の記憶としてストックされて、自転車に乗ってるときや電車の中で蘇りわたしを罵倒するのだ。

わたしの中にはずっと"自分なんか死ねばいいのに"という想いがあった。それはフライパンの底で火に炙られ続け焦げついて落ちない汚れみたいに、認識してても手を出すことのない、当たり前の光景として存在し続けた。


禅に「仏に会ったら仏を殺せ」という言葉がある。だが老師の話を聞けば聞くほど、実際には殺すのは仏ではなく自分だと思うようになった。自我と言い直してもいいかもしれない。
そこにネガティヴな意味はなく「世界をありのままに見るために自我というフィルターは要らない」のだ。人は自我というフィルターをなかなか外すことができない。だから仏を殺し自分を殺す必要が出てくるんだと思う。
ここに気がついたとき、本当に禅と出会えてよかったと思った。ずっと自分を消してしまいたかったが、その方法を見つけた気がしたのだ。死ねとか消えろとかのネガティヴなものではなく、ポジティヴに偏るわけでもない。ただ静かに坐ることで自分の在り方を見つめ、自分が消えていくのを待つのだ。それはきっと幸せなことに違いないと、わたしの中から声がする。

なのに現実は坐っていると眠くなる。白昼夢や明晰夢のようなものもよく見る。きっと自我の抵抗なのだろうと考えているが、考えること自体が自我の作用なのでやっぱり自我が強いと悶々としている。
そして文章を書くのも自我の成せる技なのかもしれないと、今日も悶々Timeを繰り返している。

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