#113 学校の「定番」を再考する
次代の流れが急加速化し、世界的に見ても、流動する社会になってきている。
AIの技術が日々進歩をとげ、将来、今ある職業のほとんどは機械に取って代わられてしまうと言われている。
世界は変化し続けているにもかかわらず、学校現場でも旧態依然として、定番が定番のまま存続しつづけている。
例を挙げていきたい。
まずは全校朝会。狭い体育館に全校児童を押し込め、一方的に校長の話をしていく。基本的に「話」というものは、聞き手の実態に合わせて工夫をするものである。1年生から6年生という年齢全てを完璧にカバーし、全員に伝わるような話など、できるのであろうか。また、朝会は基本的に「聞いているだけ」である。誰に対して話をしているか分からない話に、子どもたちは退屈しているだろう。朝会に「子どもの主体性を育てる」要素はどこにもないのである。
次に当番活動。教師の負担を減らすため、一人一役を任せる学級が多いだろう。しかし当番活動を割り当てると、子どもの自主性が育たなくなる。「今日は電気係が休みだから教室の照明が暗いまま。」「エサやりは生き物係の仕事だけど、今日は休み。でも私はできない。」など、自分の仕事以外を進んで行う子どもを育てることができない。つまり臨機応変な対応力を身につけさせることができないのだ。
始業式や終業式。このような儀式的行事の主体は「校長」である。子どもの主体性を育てることはできない。子どもはただ教師の話を聞くだけである。
教師が子どもを連れていく修学旅行。子どもは言われた通り、バスに乗り、教師の後を歩き見学をし、決められた食事をし、決められた旅館に泊まる。子どもの主体性は育たない。
地域に根差した運動会。特に表現種目の発表をすることが多いだろう。果たして何時間もかけて練習し、発表する意味があるのだろうか。教師の自己満足ではないだろうか。表現運動には「即興性」が大切である。即興性もなく、決められた動きをこなすことに価値はあるのだろうか。他の種目も同様である。「去年もやったから」では、子どもも教師も思考停止に陥ってしまう。
挙げればキリがないが、このように学校には昔から繰り返されている「定番」が多すぎる。
そしてそれを改善することなく、何十年も続けている。
「決まっているから」「失くすと文句を言われるから」という理由は、教師の「自分を守る言い訳」である。
今回は上記で挙げた例の改善例は書かないが、教師それぞれが、「どのように形を変えれば、子どものためになるか」を感がることが大切なのである。
そして忘れてはならないことは、子どもに「主体性」や「臨機応変な対応力」を身につけさせることである。
そのためにこれまでの「定番」を廃止したり、改善したりしなければならない。
教師にはその覚悟が必要なのである。では。
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