女性という存在する「悪意」
"死刑という装置なしには、法は、とりわけ刑法は、もはや存在しなくなるでしょう。かくして、死刑は、法権利の可能性の条件であり…超越論的なものなのです"(ジャック・デリダ)
この構文は性質上、「可能性の条件」たらしめる「起源」そして「超越論的なもの」を指し示すもの。
「女性」という装置なしには、「生命」は、とりわけ性は、もはや存在しなくなるでしょう。かくして、女性は、生命権の可能性の条件であり、超越論的なものなのです。
女性は超越論的に「卑下」されてきた存在である。女性の「可能性の条件」は、エロ・猥褻・淫乱・出産、その中で「男性」の生命権が優先されている前提で、女性にはそういった「価値」があるから男性より一個したの「生命権」を獲得していった。
超越論的現象学の土台となった新デカルト主義
デカルトは哲学を志すものは、まず、自我から立ち返り己の意識や知識を内省することから始める。つまり、疑わしくなる可能性が考えられるようなものは、存在するものとして通用させない。疑う可能性がある限り、方法的な批判を向け、疑う可能性が持つものをすべて排除することによって、おそらく後に残るはずの絶対に明証なものを得ようとする(『デカルト的省察』)。
「女性」は悪意があるという幾つかの事実を枚挙してみても、善意ある「女性」もいくつか枚挙できるという。つまりは、女性は悪意あるという命題がデカルト主義からして排除されなければならないものだが、超越論的現象学としての使命では、女性が悪意のある生き物というのを「男性」が超越論的に知っていて、女性を雑に与えているとしたら?
ジャック・デリダ的な論法を使ってみれば、女性が超越論的に「価値」があるとされる。
しかし、その「価値」を定める行為が超越論的に「悪意を生み出す元凶」なのだとしたら、女性は「悪意ある人間」と定めることができる。
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