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「おじさん」がうざいのはなぜか

今年で娘も14になった。

思春期というせいもあるのだろう。ただ今絶賛お父さん嫌い期である。

それとは逆に、お父さんの方は娘にかまわれたくて仕方がない。

ただ寝っ転がってウワウワ言っていた時代、少しでも不愉快なことがあると泣き喚いて蹴り飛ばしていた時代、自分の頭に浮かんだ言葉を止めどなく話すばかりで会話が成立しなかった時代(うちの娘はASDなのでこの時代がとても長かった)を経て、やっと受け応えができるようになった。しかも体つきはいつの間にか少女らしく成長し、連れて歩けば同年代の男性にチラ見される。

しかし、娘の方はシビアだ。娘は「お父さん嫌いって「わけじゃないんだけど。ウザイって思うことが多い。いるとイライラする。」という。今まで世話から逃げていた男親になかなかいい顔をしてくれないようだ。ざまあ!と思う部分もあるが、家庭内がぎすぎすしすぎるのも良くないので、なるべく仲裁している。


このへんで、男性諸氏からは「子どもの分際で親にウザイとはなんだ!食わせてもらってるんだろう!」という声が上がるだろう。それを口に出すのはちょっと辛抱していただきたい。これには理由があるのだ。私も聞いて「なるほど、これは深い!」と感心したのだ。信じて読み進めていただきたい。

(あと、蛇足ながらうちの夫は、就職氷河期世代で結婚生活20年中15年無職で今もフリーターである。食わせてやってるなんて言ったら私がシメます。)


無意識にマウントしちゃうお父さん

娘がお父さんをウザイと感じるのは

「お腹を出して部屋をうろうろしているとき」

「みんなが一度話して結論が出た話を、もう一度言葉を変えて言って、いかにも自分が裁定したかのようにどや顔をするとき」

「かわいいねと外見を褒めてくるとき」

だという。

…どうだろうか、一つや二つは心当たりがあるのではないだろうか?それの何がいけないの?という向きもあるだろう。

自分の家で腹ぐらい出してもいいじゃないか!

どや顔なんかしてない、そう見えるのはお前の心が素直じゃないからだ!

自分の子どもを可愛いと言ってはいけないのか?


いけなくはない。

だから、ダメでも嫌いでもなく「ウザイ」という言葉を使うのだ。


このウザイという言葉、ただなんとなくの不愉快を表していると思っているなら甘い。大変深い言葉なのだ。心して聞いてほしい。


そもそも、なぜ家の中なら腹を出して歩いていていいのか?例えばあなたの奥様が腹を出してパンツに手を突っ込みながら電話をしていたら「おい、行儀が悪すぎないか」と注意するのではないだろうか?さもなければそっと目をそらすだろう。だが、あなたは平気だ。何故だ?

「この家を支配しているのは俺だ。この家は俺の金で維持されているんだ」

腹を出して見せながら歩くという行為は、そういう意識を感じさせる。ただここは家の中だ。多少衣服が乱れていようが、矮小な自意識がはみ出していようが、殊更にあげつらい、叩き潰す必要はない。だからちらっと見て「ウザイ…。」とだけつぶやくのだ。


受け取ることを当然だと思うお父さん

「可愛いと言われたくない」の方はもっと深い。

少し思慮深い男性なら、このセリフを自分を性的対象としてみてほしくないという気持ちの表れ、思春期の過剰な自意識が言わせていると取るかもしれない。残念ながらそれでは大目に見ても10%の正解率…

......

いや、やはり不正解である。


子どもが可愛いのは幼いからだが、少女が可愛いのは努力しているからだ。

出かけるときには顔がむくまないような時間に起きて、健康的で水分たっぷりの食事をとり、幾種の美顔術を施し、顔写りのいい服装を選ぶ。髪の外はねを気にして、苦手なヘアスプレーを吹き付け、手がべたべたするのを我慢しながらセットをする。もちろんうまくいかないことも多い。Youtubeや、年の近いネットの友達に小技を教えてもらい試してはやめ、また試してはを繰り返す。時には足を出しすぎ、友達に「エロイw」と笑われる。いいと思った服を思いもよらなかった角度でダメだしされる。顔で笑って心で泣いて、何とかお出かけの時間をやり過ごす…。


娘は「女の子に可愛いと言っていいのは、イケメンと美女だけなんだよ!」という。「カワイイ」という言葉は、その求道の道を知っている先輩からでなければ受け入れられないのだと。

そんなにしなくても若い女の子は十分かわいい?

そうだ、私もそう思う。しかし十分とは誰に対して十分なのだろう?


絵師が絵師としか話さない現象とは?

娘の言い分を聞いて、私も気が付いたことがある。

Twitterなどで繰り返し語られる不満に「絵師は絵師としかコミュニケーションしない。ファンを見下してる。」というものがある。

私は今風の絵師ではなく漫画家だが、実はこれ15年ぐらい前は漫画家は…という文脈でも言われていた。同じようなものだと思うので応える。もちろん、見下してなどいない。ファンは有難い存在だし、芸能人などと違って、マスメディアに出ることの少ない絵師や漫画家をSNSで探して声をかけてくれるなんて、もう出会いに奇跡を感じると言っても過言ではない。

なのに、なぜ親しく話そうとしないかと言えば、やはり「見えている世界」の違いなのだ。

絵師が半裸の女の子を描くときに考えていることは「どうやったらこの絵が綺麗に仕上がるか」とかで、もっと分解すると「RGBからCYMKにしたときにこの黄色味は飛ぶかもしれないなあ」とか「ホワホワした質感を出すのに適したブラシはどれだろう。あのサイトでいいのがダウンロードできそうだったけど、ちょっと試すには高いんだよなあ」とかいう事であって、「やっぱり女はネコミミ幼女に限りますよね!この好きモノめ!」というところはごく初期に通過したかもしれない一部に過ぎない。

娯楽に提供しているものであるので、そう思って見ていただくのはもちろんいいのだ。話しかけていただくのも有難い。ただ、SNSで自分を捕まえてまで、その話題を振ってほしくはない時がある。

締め切り前とか、本気でブラシを探しているとき、表現手法に悩んでいるとき、発表した絵のイイネが伸び悩んでいるとき、版元がピンチでお金の心配があるときなどだ。そしてほとんどの時がそれに当てはまるのだ…。ああ、人生に涙あり。キミの娯楽は私には仕事なのだ。SNSを開放しているのは休み時間を潰すためではない。

SNSは自由なコミュニケーションが出来る場所とは言っても、こういうファンが1人か2人ならいいが、週に4人も5人もやってきたら「ウザイ…。」とつぶやかずにはおれないだろう。


モテたいとは限らない、「カワイイ」は求道

可愛くしているところを街で見せてくれる少女たちは、「カワイイ」の求道者だ。それは自分を題材にしたアートのようなものなのだろう。どこまで行けるのか、どこまでやれるのか、お金と時間をやりくりしながら「カワイイ」自分を作り上げていく過程において、門外漢の上から目線の感想は必要ない。ましてや「俺を楽しませるには十分だよ♡」という中年男性からの言葉はウザイを通り越して犯罪的だ。

思えば、少女たちは60年代からずっとそう言ってきたのだ。

「見せるために着飾ってるんじゃない」

「モテたいからやってるんじゃない」

それを多くの男たちはちゃんと受け止めてこなかった。

少女たちの表現を、女性の身体的な挑戦を、常に「自分という上客に向けられたもの」と信じて、あれこれ批評していたのだ。あまりにも図々しく、女性性に対して冒涜的な態度だったが、残念ながらそれがこの国の男性のスタンダードだったのだ。

少女たちは、いや女性たちはずっと戦っていた。正面から「てめえに見せてんじゃねえよ!」といったツワモノもいたが「要はモテたいんだろう!雌犬め!」とののしられれば言い返すことができなかった。実際にそうして生きている女性もいるからで、それらは母親の姿をしていたかもしれなかった。身内への遠慮で反論は封じられたのだ。

反論はできない。しても理解されない。聞いてもらえない。絞り出したのが、自らの感想として許される言葉「ウザイ」なのだ。


本当に言いたい言葉は「分かれ!」なのかもしれない

そう思うと、現代において大人の男性がその言葉をまともに聞く相手は、娘ぐらいなのだろう。父親に対してのみ吐かれる呪詛の言葉。実際には攻撃してこないであろうと思っているからこそ出る、甘えの言葉なのかもしれない。なかなか深い。

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