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ゲーム世界と現実の身体感覚と/子どもとアートのささやかな実験① #寺島知春 #てらしまちはる #アトリエ游 #非認知能力をはぐくむ絵本ガイド180

ゲームから離れてもゲームに夢中、でも……

「外でつくりたい」と、その子が言うので、桜の舞い散るあたたかな屋外で遊ぶことにしました。

数日後に小学1年生になるHくんと、おばあさまのUさん、そして私。ピクニックシートに道具を広げて、それぞれの粘土遊びが始まります。

Hくんからとびだす話題は初め、いま夢中になっているというポケモンのゲームのことが大半でした。ここまで徒歩で移動してくる間も、「◯◯っていうポケモンは(藪を指さして)こういうところに住んでるよ」としきりに話しかけてくれました。初対面の私と自分との間に、なにか接点をつくろうとしてくれているのでしょう。Hくんは優しく、ほがらかなのです。

でも、いざ粘土を前にすると、急に勢いが小さくなってしまいました。

気持ちに息を吹き返させるアプローチ

もしかしたら、たくさんの道具を出されて「さあ、遊んでいいよ」と言われたのも初めてかもしれないし、外でつくるのも慣れないかもしれません。おばあちゃんの知り合いとはいえ、私という会ったばかりの大人に、まだどう接していいか検討中なのかもしれません。

それに、それまで頭の中にいきいきと描いていたゲームの世界のイメージと、三次元の現実との接続に、とまどっているようにも見えました。勝手に言語化してみれば、「ポケモンを、粘土や紙でどうしろっていうんだろう」というところでしょうか。

いろんな緊張が、一瞬のうちにやってきて顔をのぞかせたのが、なんとなく見てとれます。

でも、「粘土したい!」と切り出してくれたのはHくんです。私としては、せっかくのその気持ちをどうにかつないで、息を吹き返させたい。だから、段階的にほぐしていくことにしました。

まず、紙にクレヨンで下絵を描く提案をしました。Hくんは、ちょこっとだけピカチュウの下絵を描くも、気分はのりきらず。

次には、ようやく袋から取り出された粘土を、ちぎってこねてみる提案です。Hくんは粘土を「かたい」と言いつつ、Uさんと私に「こねてみな」と言われて、こねこね。下絵に描いたピカチュウをつくってみるも、なんとなくうまくいかない(でも、粘土の感触には慣れてきたみたい)。

ここで私は、Hくんの粘土をちょっとだけもらって、土をまぜて練り、彼に見せてみました。Uさんも、Hくんのコーラを粘土にかけて、べちゃべちゃにしてみせます(Uさん、ナイス!)。

大人が好き放題やりだしたから、つかのま「え、そんなことしていいの……?」という感じだったHくんも、だんだん興がのってきました。完成予想図なんか放り出して、おおいにこね、つぶし始めます。

ピカチュウを、と言っていた冒頭には、地面に敷かれたピクニックシートの上からあまり動こうとしなかったけれど、いまはもう、あちこちへ植物をとりに動き回っています。

そのうちに靴下を脱ぎ、粘土を植物を、素足で踏んでダイナミックにつくるまでになりました。

いろんな草花を粘土に埋めこむ

「この花びらをこうしてさ」「あ! 虫がいる!!」と大きな声で話しながらつくる彼の呼吸に、もうさっきのか細さは見当たりません。

優しくて、ほがらかで、みずみずしいこの子の感性が、大きなエネルギーになって外にとび出しています。

Uさんはクレヨン・粘土・草花で絵の作品をつくった

「しっかり遊ぶ」ことの欠かせなさ

今日のこの遊びは、Uさんがお孫さんのHくんを「しっかり遊ばせたい」と思ったところから実現しました。

Uさんは、彼と毎日を一緒に過ごすなかで、ゲームばかりに動きが偏っていることを気にされていたのです。

いまの子どもたちが避けては通れない「ゲームと現実の体験とのバランス」の課題には、私もつねづね、ほんのりとした危機感を抱いてきたので、じゃあやってみようということになりました。

ちなみに私自身は30代後半で、ゲームが日常のなかにある世代です。

新しいゲームを始めるときの興奮も、途中から惰性でつづけて容易にやめられなくなる感覚もよく知っています。

それに、ゲームとは少し違いますが、子守の意味でジブリやディズニーのアニメーションビデオを長時間・繰り返しあてがわれていた子どもでもあったので(だから、たくさんの作品を初めから終わりまで、細部にわたって覚えています笑)、デジタル作品を見続けてもまあなんとか育つというのは、わが身を通して理解しています。

けれど一方で、人間、それも特に小さな子どもにとって、身体ぜんぶでこの世界を味わうことの欠かせなさから目を背けられないのです。これを後押しするのは、勉学による知識でもあるし、人間としての暮らしの体感でもあります。

「いま」という時代に、改めて「デジタルの体験」と「アナログの体験」の両方を並べて眺めてみると、前者は放っておいてもいずれ触れざるを得なくなるものであるように思えます。対して後者は、そういう波のなかで、意識して取り入れなければ手にできづらいものになってきているように思えます。

Hくんが、目の前の粘土や自然物に対峙して本当に遊び始めたときに、Uさんはこんな言葉を口にしていました。

「そうだよ、あんたは小さくまとまってなんかいないんだよ。どんなふうにでも自由につくっていけるんだ」。

すべての人は、本当にそうなんだよ、と私も心底思います。


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