1095日の生き様 ⑤~崩壊するメンタル~
抜ける魂
こんな私なんかが表現する過去の文章を見ていると面白い感じに伝わっているかもしれませんが、掟の通り部活中は常に笑うことはできず、何に対しても真顔で魂は完全に抜けきった状態で過ごす期間が4月から続いています。
笑顔を我慢する。というか我慢せずとも、部活中はもちろんのこと日常でも笑顔が出ないような日々になっていきます。
そして1年生皆が日に日に死んだ魚のような目になっていきます。
どれくらいの圧とハードな練習によってやられてたか、懇親BBQの写真がありましたので、こちらを見てもらうと伝わりやすいかと思います。
最後方列にいる坊主集団が1年生です。画像が荒くてわかりづらいですが、全員が死んだ魚の目と顔をしています。
今もなお、現役で活躍中の哲也さん、百目木さん、翔さんや元アジアリーガーの小川さん(兄)、笠井さん、鈴木マサさん、なんかも写っています。探してみてください。
このようにハードな練習と併せて校歌や応援歌の練習、一発芸、イタズラ、ヤキ、なんかも正部員となって追加されていきました。
最初の脱落者(仮)
そんな中、朝の体育館清掃をしている時に、とある同期が皆に言いました。
「ごめん、俺は辞めるけど、みんなは頑張ってほしい」
そう、彼、南祐太でした。
彼は光洋中が生んだガッツマン。アイシングをセーフにしにいく姿勢はホイッスルが鳴るまで諦めないお手本の姿でした。ちなみにスピードに乗り過ぎてストップはできません。
そんな姿を評価され、駒澤が一番最初に声を掛けた選手でもあります。
入部後すぐにヘルニアを患い、コルセット(通称:腰バン)を巻いて走っていましたが限界に。それくらいの時期に言われたと記憶しています。
その後は手術を行い無事に戻ってくるのですが、当時、誰が辞めると言い出してもおかしくない辛さだったが故に、ビックリというよりかは、やっぱりか、という気持ちと正直自分がそれどころじゃない、という気持ちが大きかったです。
もちろん彼とは中学時代から選抜で一緒になり、カナダにも一緒に行きましたし、大澤卓也がカナダ人にチェック喰らって失神した時はまるで緊急救命士が如く二人でベンチから飛び出して救助に向かった仲であり、大切な仲間です。
ですが、そんな大切な仲間の心配をする余裕がない窮地。今思うと自分に対してガッカリします。
それぞれがそういう窮地なのをわかっているから、相談なんて皆聞く余裕がないのをわかっているから「俺は辞めるから」という確定的なコメントだったんだと思います。
彼は優しい人です。野球部にキレて喧嘩する時も優しい彼は笑顔で馬乗りになって殴ります。もう一度言います。彼は優しい人です。
その後は監督や先輩も絡んで何か相談があったのか、それとも、もう一度自身で頑張ろうと思えたのか、無事に帰って来てくれました。
地獄絵図
この頃から見える世界は、まさに地獄絵図。
・この授業が終わると陸トレが始まると思うと恐怖で現代文の教科書を見ながら号泣する同期
・お母さんの握ったおにぎりに付箋で「がんばれ!」と書いた文字を見て泣きながらおにぎりを食べ、付箋を大事に机の脚に貼って糧にする同期
・原因不明の血便で高1にして腸カメラを挿入され、結果、わかりませんねぇ。で済まされる寺尾。
・5/18というGW明けの一番ツライ時期に16歳の誕生日。朝起きると、「幸也頑張れ!かな?」とお前が無理ならいいんだぞと言わんばかりの「かな?」が付いた手紙の上に1万円札が机に。父からの手紙に号泣しながら自転車で登校する寺尾。
・怖くて家から出られなくなる同期。陸トレ前に監督から全員で迎えに行かされるも玄関で門前払い。
・とにかく1時間目が終われば全員が弁当を食べる。じゃないと陸トレで全て吐き散らかす。
・そして授業はとにかく寝る。寝る。寝る。眠たいわけじゃない。現実世界になんて意識を置いておきたくない。
その他、いくらでも地獄要素はありました。
重軽症
そんな中、全員がそのような重症化してるタイプかというとそうではなく、中には軽症なタイプもいました。
特に軽症だったのが、
そう、彼、釧路の浅利拓でした。
彼は釧路から来ているというのもあり下宿生活でした。
その下宿には哲也さんと翔さん(釧路組)がいて、特に哲也さんがいるから他の3年生も来て遊んでったり、下宿の先輩だけでなく他の先輩とも部活後も一緒にいるような機会が多く、もちろんその分厳しくされ大変だったと思いますが、一方で可愛がってもくれ早い段階で心身ともに慣れるのが早かったようです。
一方で重症化してる場合は
このように意味の解らない拳を作り口元に持って行き、エア吹き矢を遠い目で吹き続ける。
蔦森くんは遠い世界に逝ってしまっていたようです。
じゃ、私はどうだったのか。
皆の事ばかりで陸トレの遅い寺尾こそ大丈夫だったのか。
写真なんて撮って寺尾こそ余裕だったんじゃねぇのかよ。
皆さん安心してください。
その期待、裏切りません。
私はというと・・・
門別に死にに行きました。笑
この時期より少し後の話になりますが氷上練習が入ってきたある日、王子リンクに自転車で向かう途中、一気に抜け出してリンクへは向かわず当時、母が勤める
今は無きイーストジャパンに泣きながら逃げ込みました。
母には祖母の家がある『門別に行きたい。』そうだけ言って、祖母の迎えでその日のうちに門別へ逃亡。
翌朝、起床と共に祖母の家のすぐ裏が海だったので飛び込もうとしました。
ホッケー辞めれば済む話。でも、同期の仲間がいる。みんな結局は辞めないで頑張ってる。そう思えば思うほど、辞めればいいだけと思えなくなりました。どうにか、死なずに生き残り、皆を裏切らずに生きていけないか。
俺はどうすればいいんだ。
三日間まともに飯も食わず、死ぬか生きるか体育座りで海を眺めて考えました。
そんな悩んでいる中、そもそも自分はアイスホッケーが好きか?と自問自答してみました。アイスホッケーは好き、と答えが出ました。すると、『じゃ、やればいいべ、上からの圧なんざ、いつまでもあるもんじゃない、もう少し頑張ってみれば気付きゃ2年生さ。』と多分、未来の寺尾幸也であろう人がアドバイスをくれ、死を選ぶことなく、帰りました。
あの時は本当に考えを半歩踏み違えていれば、こんなnoteなんて書いていなかった、いや、書けなかったでしょう。
そして何より同じく陸トレが遅かった父からの言葉が自分の心に刺さってました。
父「お前はそれ何分かかんのよ?」
俺「40分」
父「大澤は?」
俺「25分」
父「そっか、お前もたいしたもんだな、大澤より15分も残業して練習してんだもんな」
父「だからな、遅くてもいいから皆と同じ本数(距離)走れ、そうしたら距離は一緒かもしれないけどお前の方が長い時間、残業して練習してるべ」
この言葉は本当に衝撃的でした。
別に自主的に陸で足が早くなろうとは一度も思った事は無いホッケー人生だったけど、必ずトレーニングに付きまとう当時の長距離走。
遅くて怒られて、時には皆にも迷惑かけて、なんか置いてけぼりをくらった感覚でした。
そんなツラかった時期にかけられたこの言葉は今も鮮明に覚えており、もう一度遅くてもいいからやってみようと私を復活させた言葉でもあります。
そうして3日間も行方不明になりチームを空けた後、どのような仕打ちが待っているかという恐怖もあったのですが意外に皆、特にヤキを入れられるわけでも何もなくスムーズに戻る事ができました。
そして今でもこの話をすると、「あれ?そうだったっけ?」と皆が答えるくらい覚えていなく、意識を他の事に使うほど余裕がなかったんだろうと思います。笑
恒例の
駒澤のホッケー部でそうこうしている内に支笏湖マラソン(通称:シコマラ)の時期が訪れます。
よく「駒澤のシコマラってどっからどこまで?」とか「何キロ?」とか聞かれるので、ちょっとgoogle先生で測ってみました。
(学校によっては支笏湖マラソンがある学校もあってスタートとゴールの位置がそれぞれなので駒澤はどうなのか気になる人が多いようでした)
今で言うと駒澤高校からリゾートスパ 水の謌がある温泉街まで、というのが正確な表現でしょうか。支笏湖道路に入るまでの道順が記憶怪しいですが大体25kmです。
あくまで車の276号線沿いの距離なのでランニングロードは横断歩道を渡ったり自動車道より遠回りしたりするのを加味するとgoogle先生は23.58kmと言ってますが25km程度で間違いないと思います。多分。
ちなみに分かっている人がほとんどだと思うのですが、地味な登りがスタートからゴールまで続きます。ゴールの後は温泉に入って帰る、という最後だけなんか平和な雰囲気を出してますが、変わらない景色に幾度と心が折れそうになるコースです。
という事で、25km走るんです。2時間30分以内に。
かなりの距離ですよね、しかも日頃散々陸トレをやっていて心身共にボロッボロの状態で、です。
この支笏湖マラソン限定ですがハーフパンツを着用する許可がでます。
見てください。この私のブレない姿勢。ジャージ上下です。
そして悟っているであろう、遠い目線。駒澤の1年生として、やられ具合100点満点です。
一方で先輩方と言えば
左の白いタンクトップが哲也さん
赤いシャツが百目木さん
水色のハーフパンツが翔さん
3名共、2年生の時ですね。
マラソン後、数日経ってこの写真をいただき見て思いました。
いや、この人らイカれてるわ・・・。と。
なぜそう思ったか。
遠いし画質が荒いのでわかりづらいかもしれませんが、みんな満面の笑みで全力スタートしてます。
これから25kmも走るんですよ。
なにその笑顔、おかしいんじゃない?と。笑
一方でジャージ上下姿で腕時計のストップウォッチ機能を必死に確認してるのが多分私です。(翔さんの右3つ隣)
多分、自分が2年や3年になった時は圧もほとんど無く、冗談を言って笑って割り切ってスタートしてたと思いますが、一年の当時はどうしてこうも満面の笑みでスタートできるのか、更に駒澤が怖くなった記憶があります。笑
また2時間30分の制限時間のクリアについては、直前まで家にこもって練習から逃げてた同期に無事に負けたものの、2時間30分をしっかりギリギリで切ってやりました!!(ちなみに早い人は1時間30分とかです。笑)
ゴール後には風呂で監督と一緒になり「はっはっはっ!寺尾ー!ずっと練習やってたのにシコマラで抜かれて、たまったもんじゃないな!笑笑」と笑って声をかけてくれたのを覚えています。
こうして、ここから先は氷上練習が入って来ます。
平日から2部練習は当たり前、夏休みなんかは3部練習がザラにある世界へと入ります。
次回からはその辺のハードっぷりと1年生の寝言について書きたいと思います。笑
本日は皆様の良き週末を願い2作も公開し頑張りました!
ごゆっくり休んでください!
では、これにて!
てらを
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