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どうにもできないことに直面し、無力な自分を味わうことの重要性。

計画相談という仕事以外に、私には法人運営という大切な役割を担っている。法人運営といっても、資金繰りや経理等を私が行なっているわけではないが、代表とともにその最終決断を行うこともあるし、ともにリスクを背負うことも行う。また、特に職員の相談に乗ったり、運営上の大事な決定を代表と一緒に行うこともある。その責任の一端を担っているからこそ、簡単に考えて、容易に判断するわけにもいかない。利用者の生活だけではなく、職員の生活も守っていかなければならない立場なので、本当に気が楽になることがないのだ。

そんな私の業務の中で、事業所の職員の報告を代表とともに聞くことがある。その多くは、課題や問題を抱える児童やその家族のケースが多いが、その中で、改めて私たちができることがいかに限られており、、どんなにそこに私たちが知り得た現実や事実があっても、どんなに私たちがどうにかしてあげたいと思っていても、私たちにはどうすることもできないという現実を突きつけられることがしばしばある。そのときは、そこにいる全ての職員が無力感に囚われてしまうことになるのだが、その無力感こそ、私たちは真摯に受け止め、味わうことを大切にしていかないといけないと、職員に話している。

小学校1年生の発達課題のある本人ではなく、その子をそばで一生懸命支えている小学校5年生の本人のきょうだい(親は、仕事を理由にきょうだいににいろいろと任せていくことが多い様子)に大きな負担がかかっている中、目の前に手をさしのべなけれなならない存在がいることがわかっていても、その保護者が、私たちのサービスから離れようとしているため、「何もできない」「何もしてあげられない」現実を突きつけられ、「どうすることもできない」私たちの無力さを思い知らされる出来事が今回あった。本来であれば、私たちの業務は、サービスを利用する本人の支援を考えていくことだが、その対象者へのサービス利用を通じて、本人を一生懸命支えているきょうだいの存在を知ってしまったこと、そして、そのきょうだいが今後、必ず崩れてしまうことを、私たちはリアルに予想してしまったのだ。

よりによって、その家庭には計画相談もついていない。基幹相談や家庭児童相談室は、これまでの経験上、問題にならない課題について積極的に動くことはしない。行政窓口は聞くだけで終わるし、児童相談所はすぐに「虐待対応」にしたがる。そんな地域だからこそ、私たちの提供するサービスから距離をとろうとしている今、まさに手詰まりな状況を感じている。送迎のときには、必ずきょうだい児に声をかけ、「大丈夫?きつくない?」「無理しなくていいよ、私たちがするからね」とスタッフが声をかけている。その時のなんとも言えない表情が、私たちの胸を毎回締め付けるのだ。本当なら、もっとお友達と遊びたいだろうな・・・やりたいこともあるだろうに・・・でも、私たちができることは何かといわれたら、負担となっている本人を預かることだけなのだ。

親に何度かそれとなく声はかけてはいるものの、知ってか知らずかそのことについての反応は全くない。もちろん、私たちがでしゃばることではないからこそ、じっと、きょうだいに声をかけ続けることしかできなかったわけだが、サービスから離れようとしている状況の中、まもなくその子に、声すらかけることができなくなる。今の私たちにできることは、自分たちがいかに無力で、人の人生をよりよくするなんてことを安易にことばにできないかを改めて感じることでしかないのだ。この悔しさ、悲しみ、切なさ、憤り、そういった感情を私たち自身が知ることで、私たちは常に「謙虚」でなければならないことを理解するのだ。祈るような気持ちで、最後まで関わり続けることなのだ。保護者ばかりを悪者にするのではなく、保護者を含めた家族が、ここまで追い詰められた状況を正しく理解することが重要なのだ。そして、私たちは常に、相手の立場を正しく理解しようと試み、相手のこころの奥底の痛みを感じることができる人間であることが、ここから得られる私たちにとっての重要な学びなのだ。

いつも思うのは、私たちができることよりも、私たちが学ぶことの方が多いということである。



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