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永遠の迷子。

旧態依然とした山奥の精神科から転職した私が次に選んだのは、またもや精神科病院だった。ただし、配属先は、病院やクリニックの医療相談室ではなく、「地域活動支援センターⅠ型」だった。当時、県下初の委託相談支援事業所と併設された地域活動支援センターは、とにかく地域の相談の最前線のセンターだった。スタッフも5名を要し、3つの法人がそれぞれ派遣したスタッフと合流して、合計9名で知的、身体、精神障害といった様々な相談を受ける、当時、最先端の地域活動支援センター/相談支援事業所だった。当時勤務していた地域としては、80%が山林でありながら、広域合併で広大な範囲に約7万人が住む地方の市が設立した地域活動支援センターで、社会復帰指導員と精神保健福祉士としての相談支援業務に従事することになったのだ。それは、もうとにかく障害にまつわる地域のお困りごとを受け入れる「なんでも屋」であり、これまでなにひとつしてこなった私にとってみれば、もう、なにをどうすればよいのかわからない状況。私の隣で私よりもはるかに若い同僚が、私が思いつく以上の選択肢を提供して、課題や問題を解決する姿を横目に、精神的にも苦しい時期が長く続いた気がする。

もっとも記憶に残る出来事は、5人以上いるスタッフが全て出払っていたなか、相談にこられた利用者さんが、私の顔を見るなり、「あれ、みなさんは?」と尋ねられ、私が「みんな訪問などにでかけていっているんですよね。何かありました?」と返答すると、「あ、良いです。またきます。」といって帰っていく何人もの利用者の姿である。要は、私は相談員として全く認められていない状況が長く続いたことであった。これには正直、精神的に参った。もちろん、顔を知られていないこともあるが、要は相談支援のノウハウも含めて、私の未熟さを露呈した出来事だったからだ。利用者にはお見通し。今、思い返せば、この時期の苦しさは、今でも鮮明に覚えている。利用者に相談員として認められていない状況は、本当に精神的に追い詰められるだけではなく、これまでの経験や知識を完全否定されたような気分になってしまっていた。

当時の私は、「私にしかできないこと」探しに必死だった気がする。それまでの経験で、私は「アルコール依存症」の対応の知識はもっていたので、もっとも支援者が嫌がる領域であった「依存症」の対応を自らかって出て担当していたことを思い出す。自ら進んで、地域の断酒会にも参加した。そうでもしないと、私がこの地域にいる存在価値を見出せなくなったからだ。年下の同僚から、なんども支援に関する注意をされてきた苦い思い出もある。今思えば、そこで味わった苦い思い出が、今の私を形成している気がしてならない。「謙虚に学ぶ」「地域を知る」「地域に根差す」まさに、今、計画相談の相談支援専門員として、私が求めている土台は、ここで教えていただいたことばかりである。そして、素晴らしい先輩にも恵まれて、私は腐ることなく「地域を意識して」、そして、「本人のニーズを意識して」支援する大切さを身をもって学んだのだ。私は、ここで私は「相談支援専門員」にしてもらったのだと思う。

結局、たくさんの経験をさせてもらった「地域活動支援センター」も4年弱で退職することになるのだが、それは、「医療機関」ではなく、「地域」で仕事がしたいと感じたからだ。医療法人に所属すると、どうしても異動が生じる。病棟に異動する可能性もあるなかで、私は地域で仕事をし続けたいと思った。もちろん、給与的にも、地域を選択すると、大幅に給与が下がってしまうのだが、前職がもともと低かったので、私にとっては、そこまで重要ではないことも理解していた。結局、その後に転職した際に、年間の所得が100万程度下がることになるのだが、当時の私でも、全く後悔していなかった。それくらいに、地域で働くことに、私は大いなる魅力を感じていたからだ。その後、私はNPO法人が運営する就労支援事業所に転職することになる。

今、思い返すと、本当に相談支援を行なっていた地域活動支援センター/委託相談支援事業所での経験は、今の私にとっての全てだったように思う。あの時、私に優しく教えてくれた上司や先輩が、40歳半ばになった今でも、私にとっての心の支えである。「結局、私たちにできることは、相談者の何かを変えるのではなく、相手のことばや声に耳を傾けることしかできないのよ。」と信頼する上司から言われたことがあった。そのことばを聞いて、私がそれまで「なんとかしなければ」「今よりも良くしなければ」と相手を変えることに気負っていたことに対して、急に恥ずかしさと情けなさを感じ、自分のダメさ加減に衝撃を受けたことを思い出す。こうやって書いている最中も、顔が真っ赤になるくらいである。でも、それも今はとても良い経験で、相談員として、私自身の自己理解につながる経験だった。

私が担当して、毎日の様に対応していた利用者が、過飲酒による肝臓機能悪化に伴う大動脈瘤破裂で血を吐いて、自宅でひとり亡くなっていたと聞かされた出来事があった。私は失望し、自分の存在意義が一瞬で吹き飛ばされるような思いに晒された。無力感と虚無感。自分が何もできなかったことを悔い、精神的に燃え尽きてしまったこともあった。昨日まで元気に顔をみせてくれた利用者が、その日の夜、湯船の中でてんかん発作が生じて、溺死した報告を受けた。いつもなら、シャワーだけだったのに、その日はとても寒い日だったので、きっと湯船に浸かりたいと思ったのだろう。そんな時に限って、、、である。いつも笑顔でいたその人は、次の日からいなくなった。私たちの仕事が、人の命に直結していることを思い知らされた。

あれだけ私にとって衝撃的な体験をしてきたはずなのに、それでも、私は相談員を今も行なっている。サービス管理責任者や児童発達支援管理責任者もしてきたが、私は、やはり相談員なのだと改めて思っている。あれから10年以上が経過した。少しは地域で認められる相談支援専門員になっただろうか。いや、そんな私は、今ではなにもしない相談員と良く言われる(苦笑)。でもそれは、その利用者ができることだからだ。もちろん、私がしなきゃいけないことが増えることも、正直面倒ではある。しかし、誰もが地域で自分らしく生活するためには、少しでもできることは自分でできるようになってほしいから、自分でやってほしいと願うのである。私が「あてにならない相談員」になれば、利用者はみんな、自分がやった結果を私に教えてくれる。私は、そのことを褒めるだけでよくなる。たとえ間違っていても、一緒にそのときは考えていけば良いだけである。だから、人生の選択に失敗なんてないはず。

私が担当する、私が勝手に通称「キャッツアイ」(古い!)と呼ぶ、3人の若い女性利用者さんがいる。それぞれはお互いの面識はないが、その3人だけは、なにかにかこつけて、私に対して電話、LINEを時間外でも容赦なく投げかけてくる(別に私がそうされることを嫌がっているわけではない)。でも、私はきちんと内容を確認しているが、「勤務時間外の場合は反応しない。」というルールを設定している。勤務時間内に中身を確認して、「いいね!」のスタンプを押している。ある利用者さんは、なぜか写メを送ってくるが、それは、「見て欲しい」「評価してほしい」「認めてほしい」のサインなので、あえてことばではなく、その時に感情を表現するLINEスタンプを押す。少なくとも、私は一定の距離を保ちながら、相手と向き合う様にしている。過去に、燃え尽きを経験したときに、その利用者の担当を外してもらう経験をしたからこそ、私は、そこから学びを得て、関係性を続けることを第一に、そのために責任ある必要な手段を取る様にしたのだ。それこそが、相手を裏切らない最大の信頼関係であり、「決して見捨てない」だから「私は、私自身と向き合い、私自身の限界を知り、対応する」ことを心に留めている。相手が不満なら、私から担当を変えて貰えば良いし、お互いのためでもあると思う。

今の私は、過去の私の延長線上にある。そこには、たくさんの人とのつながりがあった。いろんなことを教えてもらいながら、時には裏切られたりもした。対立して、若かった私は、すべてを捨てて飛び出したことも何度もある。豆腐メンタルなくせに、やることは大胆だったなぁと、今は過去の自分を笑えるが、当時は真剣だった。今は、そんな体力もないし、そこまで怒ることも少なくなった。でも、あの時の感情は、今でもわすれないようにしている。今も、今ここにも、口では正義を語りながら、裏ではその反対を行なっている輩も数多く確認できている。法人が社会福祉法人やNPOだから安心といったことは全くない。「今の若いものは」と言っている年配者も、正直、ロクでもない。福祉を語りながら、利用者に我慢を強いらせる連中もたくさん確認できる。だから、私は全力で利用者や保護者を守るし、利用者の選択を尊重している。

私にしかできない何かは、きっと、今も探し求めている。

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