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療育は手段。大切なのはやはり人。

最近思うことは、障がいを持つ大人やこどもを支援する上で本当に必要なのは、提供するプログラムでも支援技術もさることながら、やはり支援を行う「人」であるということだ。その「人」を育てるのも私たち「人」であるということ。前回、安易に人をクビにしたり、切り捨てる人は福祉には向かないとnoteに書いたが、やはりこう言った部分に焦点を当てても、やはり安易に人を切る捨てることへの抵抗が私にはある。

どんなに資格をもっていても、どんなに経験をもっていても、すぐに対象者への適切な支援ができるわけではない。本当にできる支援者は、きちんとそこにも向き合いながら、周囲との関係性のバランスを構築したり、立場を周囲に伝えながら、協力体制を構築して対象者への支援に入る。突如、確信に迫り、周囲を驚かせたりすることもなく、少しずつ理解を促しながら、全方向の協力体制を構築してから本質的な部分に迫る。そのためには、支援する側の「謙虚さ」が求められる。本物の?優れた?支援者の動きは、そばでみているだけでも見事だと感心するが、とにかく周囲との軋轢を生まず、謙虚に振る舞いながら、周囲を導いていく。

対人援助職として常に意識しなければならないのは、利用者に「何を求められているか」の見極めであり、そのために「何に取り組むか」である。じつは、「何に取り組むか」の判断がとても難しい。「療法」「支援技術」はさまざまあるが、それだけを推し進めて取り組めば良いということはなにひとつない。せっかくの素晴らしい支援技術も、『頭でっかちの技術論』が、最終的に「療育不要論」につながっていると思う。それに取り組む前に、今ある支援体制にどのようにアプローチしていくのか?目的を明確にして、どのためにどのような支援が必要なのかを、丁寧に周囲にも説明しながら、自分たちは決して「否定論者」「対抗者」といった支援者の「敵」ではないことを理解してもらう必要がある。

どんな理由をつけても、このアプローチがないと、土足で自宅に上がり込んで「オラオラ」と言っているようなものだからだ。この意識が、専門性の高い療法士や支援者になればなるほど忘れがちになる。ご本人たちにその意識はないが、「上から目線で指示をする人」「ずけずけと入ってきて意見を言う人」という周囲の評価が、結果的に支援体制の構築を阻害することもある。特に、お互いにプライドを持って支援や教育を行なっている人同士になると、なおさらである。最近、保育所等訪問事業を導入している利用者や支援者から問題提議があるのは、こういった部分が特に多い。この状態になったときに、誰が一番困るのかを支援者は考える必要がある。

通所系サービスも同様である。謳っている療法や支援技術はあれど、実際に支援をするのは、そこで勤務する「人」である。その「人」が支援するこどもたちに対して、実際にどのように支援を行なっているのかは、その場にいない保護者は知る由もない。しかし、こどもは正しく反応することができる。それが「おちつきのなさ」であったり、「行動面」「精神面」「情緒面」の不安定さにつながっている。支援技術を機能させるのは、「人」でしかないし、必ずしも専門的な療法士とは限らない。そういったことに気づき始めた保護者も確実に増えているなかで、支援者である私たちが本当に気づくことができているのだろうか?今一度考える必要があると思う。

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