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周囲に迷惑をかけて、支援者は成長していく。

私は27歳のときに「精神保健福祉士」の国家資格を取得した。別にこれまで隠してきたわけではないが、当時を支えてくれた家族は、今はここにはいない。今思えば、当時の私は本当に未熟で、家族に苦労しかかけてこなかったと思う。27歳で妻と子を抱える精神保健福祉士は、大学卒業したての純粋で若い精神保健福祉士と比較すると、採用側はやはり重荷だったのかもしれない。若い人たちからどんどん就職していく中で、私の就職活動は、卒業後も続き、5月を迎えてようやく終えた。それは、誰も応募しなさそうな山奥の古い精神科病院で、「天国に一番近い精神科」と揶揄されていた。私たち家族は、当然ながら転居を強いられ、そして、週1回の事務当直をしながら手取り16万いかない状況で、家族3人を養わなければならない状況だった。どこに行っても初めての場所や環境で、家族もきっとストレスも大きかっただろう。そこに精神的余裕もなければ、きっと自由もなかっただろう。こんな生活を長い間強いたのだから、きっと、家族の関係も崩れていって当然である。そして、私は離婚を経験することになる。

私が悪いとわかっているが、我が子との別れは胸が引き裂かれるような苦しみが伴った。息子に親を失わせる申し訳ない気持ち、少なくもと、私の子であってほしい、親権だけは私に預からせて欲しい、私が親としての自覚を持ち、安いながらも養育費を払い続ける責任を負わせてほしいと伝え、結果、元妻が再婚するときまで、私が親権を持たせてもらっていた。母と子は、生まれた土地に戻り、私はもうしばらくキャリアを積むために現地に残った。しばらくは週末の面会もできていたが、やはりいろんな問題がそこに生じ、面会も拒否され、現在も我が子に会うことはできていない。幼稚園の卒業式までは参加できたけど、私にとっては、写真に映る笑顔の息子のまま成長が止まっている。

実は、私自身もこの時期のストレスで「心房細動」「不整脈」で苦しむことになる。そして、結果、最先端のカテーテル手術を受けることになった。手術は無事に終え、私は退院日を迎え、会計に示された私の入院費を見て笑った。主治医は、合計600万円の手術になりますとのことだったので、ある程度の負担は覚悟していた。しかし、私は約10日間入院して、合計5万円程度だった。なぜなら、前年度所得が「非課税」だったのだ。日本の健康保険制度のすばらしさを、私は身を持って実感した瞬間だった。そして、私はそれでも尚、この仕事を続けることを決めた瞬間だった。いろんな問題はあるものの、本当に困った時にこそ、社会保障はあるのだと。

それにしても、私の最初の職歴である精神科病院のPSWとしての経験は、まったくもって酷い状況だった。事務所に挨拶をしても、誰も返してもらえないほど、医療相談室は事務局に毛嫌いされていた。また、毎日行う業務は、病棟の患者の金銭管理と、未払い入院費の督促、入院手続きはさせてもらったが、インテークは主治医が行い、主治医がミミズが這うような文字で書いた生活歴を、私たちは必死で解読し、ワードでカルテに打ち込むという作業。形式のあるカルテにうまく文字が乗っかるように、ポイントをあわせて印刷するという無駄な技術を習得することになった。生活歴の書き方は、打ち込む作業で覚えたような気がする。私たちが山奥から下界に降りるのは、医療保護入院の定期病状報告書を役所に提出するときだけだった。あとは、死亡診断書の提出。私が医療相談員で行なった業務は、結局それだけだった。私が勤務した3年半のなかで、退院援助ひとつしたことがない。なぜなら、すでに退院の意欲はなく、亡くなるまで病院にい続ける患者さんばかりだったのだ。上司が事務局に毛嫌いされたのは、入ったばかりのときに退院させようと努力した結果、主治医や事務所から跳ね除けられた結果だった。武闘派の精神保健福祉士ならできたかもしれないが、新人で入ったばかりで右も左もわからない私にとっては、どうすることもできなかった。

でも、私はこのどうしようもない旧態依然の体質の精神科を経験したからこそ、地域で働くソーシャルワーカーを目指すきっかけになったといっても過言ではない。余談だが、私は、入職1年程度ですべての上司が退職して、私が医療相談室のトップに立つことになる。たった1年程度で・・・。でも、私は事務局の事務長や事務員と仲良くなり、そして、薬局や看護部長とも仲良くなり、職場環境はとても楽しくなったことだけは、当時の自慢である。しかし、仕事内容は変わらず、さすがにここにいてもだめだと思い、3年は我慢して働き、就職活動をしてめでたく再就職できたのだが、最後は、本当にさみしさでいっぱいになったことを思い出す。はじめての医療での就職、苦しい生活、離婚、そして息子との別れ、人生の再構築、、、思えば、たくさんの経験と、たくさんの人に心配と迷惑をかけ、私のPSWの人生は始まった。大人になってはじめて、息子との別れの経緯を話しながら、父の前で泣いたことがあった。親に孫を失わせたことの罪悪感もあったが、どんな状態になろうとも父にとって私はやはり息子だった。だからこそ、私は踏ん切りがついたと思う。今でも、いつか我が息子が会いにきてくれるのではないかと思っている。例えそうでなくても、その希望だけは持ち続けていたい。


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