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エルピス ー希望、あるいは災いー

ドラマ、エルピスー希望、あるいは災いーを毎週待ち遠しく思いながら見ている。

そして、第五話について少し書いてみたくなった。

拓朗が、かつて、友人がいじめを受けていることを学校に言ってほしいと言ったのに、握りつぶしたことについて母親を非難するシーンーーー

私には、子どもはいないけれど、身につまされた。

「あなたのためだった」も、「母子家庭だから」も、子どもには、単なる体のいい「言い訳」にしか聞こえないし、結局は保身だけれど、そのときは、本当にそう思って、良かれと思って言わなかったのだろうことが、理解できないわけではない。

そして、言ったところで何も変わらないーもしくはかえって、自分の子どもに災いを持たらす結果になるかもしれないーそんな風に考える母親の気持ちは痛いほどわかる気がした。

一方で、自分が親を頼った子どもだったとすれば、遅かれ早かれ、その親が受け入れられなくなるのも当然のことだと思う。

そして、思い出した。

この仕事をし始めて5年ぐらい経ったころ、塾にきて毎日「僕なんて価値のない人間だ」と泣き続ける中学生とその周囲の生徒たちのことで心配なことを伝えるだけではなく、私たちのできることも考えて、市役所や教育委員会に相談に出向いたことがある。

そのとき、言われたことを今でも覚えているー

「あなた、珍しい人ですね。人の子どものためにそんなに一生懸命になれるなんて。」

私たちの伝えたことは、そこで行き場を無くしてしまった。子どもたちの未来の平穏や正義より、保身や見た目の平穏のほうが大事な人が世の中にいること、自分が無力であるという現実を思い知った。

私の開けてしまったパンドラの箱から「災い」が噴出してきたようだった。

そのときの衝撃は、今も私の中にある。

でも、それが、子どもたちの目の前にある問題について、私ができることはする、そして、一緒に対応してくれる人を探す姿勢へとつながっているのも事実だ。結局、自己満足かもしれないが、それでも、きっとできることをしてくれた大人が周囲にいたことをあとからでも知ったとき、未来の大人が自分自身も人のために何かしようと思ってくれると信じたい。

そして、できれば、より多くの大人が今の見た目の平穏を守るよりも、子どもたちの未来の平穏のために今、行動することを選んでほしいと願っている。

それが、私の開けてしまった「パンドラの箱」に残った「希望」なのかもしれないと思っている。

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