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さみしい神社

島食の寺子屋のある海士町は、後鳥羽上皇が島流しに遭ったことで有名ですが、奈良時代より、江戸の頃まで、佐渡や壱岐などと並び、流刑の地として、隠岐諸島は名を知られていたようです。公家や武家の人々から一般庶民まで、千年以上の間に、数多くの人々が流され、それぞれの罪人らは、多様な感情や生活を持っていたようです。

隠岐神社

海士町の中でも、一番大きな観光地である、隠岐神社は、この地で亡くなった後鳥羽上皇を祀ったものです。休日に境内を散策していると、推恵神社という神社の案内板を見かけ、薮の中に小径が続いている光景が目に入りました。どうやらこの推恵神社は、隠岐の対岸にあたる、松江藩の藩主に、女性を巡って、あらぬ罪状をつけられ、隠岐の地に配流となった男、小野尊俊を祀った神社のようです。


この時私は、偶々隠岐諸島の流刑に関する本を読んできたばかりで、推恵神社という文字に見覚えがあり、導かれるように参道へと歩みを進めてみました。蚊の多い小径を歩いていると、何度も顔に蜘蛛の巣がかかることから、どうやらここは、あまり人の出入りがない道のようです。

ようやく行き止まりに到着したと思うと、そこには小さい箱がちょこんと座っているだけで、想像する神社とはかなりかけ離れたものでした。とりあえず参拝してみようと、お賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らそうとしましたが、どうやら鈴が外れているようで、ゆすっても音が鳴りません。一人の人間が祀られている場所としては、とても物悲しい雰囲気が漂います。

小野尊俊は、流刑により妻と疎遠となり、再会することなく隠岐の地で天に召されたようです。彼の冥福を祈りながら、二礼二拍手一礼を行うと、そこには人気のない森の静かさがありました。観光地の神社にはない、祈りの時間の静寂さに、何か神秘的なものを覚え、薄暗い参道を後にしました。

海士町での暮らしは、都会で暮らしていた私にとって、日々新鮮なことが多く、楽しい毎日ですが、ふとした瞬間に物寂しい気持ちになることがあります。この島には、後鳥羽院や、小野尊俊の他にも多くの人々が、流罪の身として上陸し、中には無実の罪で刑に処された人もいたと思います。そういった歴史の積み重ねが、なんとなく寂しくも、風情があるような、島の空気を作り上げてきたのかもしれません。

(文:島食の寺子屋生徒 岩崎)