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自分は何者にもなれないと考え込む1割の人間

私って何者なのだろうか?

多分、自我を持ち生きてくると大半の人はこの問いにぶつかると思う。そして7割の人はすぐ忘れ去り2割の人はたまに思い出し1割の人はこの問いに固執する。
私は不運にも1割の人間だった。

昔から目立つことは得意だった。幼少期は優等生タイプとして生き、高校に入ると文化祭の実行委員や部活動の部長などを務めなんとなく名前を知られている存在になれた。大学では学生団体立ち上げや多くのボランティアにインターンにと「何者か」にはなれるように常に生きてきた。しかしつい3ヶ月前にそんな私の身近にいるある人間に言われてしまった。

「あなたは役職に固執しすぎている」

正直、痛いところを突かれた。
私は自分が何者かわからないし夏のアイスのように溶けてしまうようなあやふやな存在だとすら思っている。だから、自分をはめ込み形作るフレームが欲しいのだ。その枠は常に「リーダー」であった。多くの人の中で常に輝くリーダー、それが私、そう枠にはめ込み決め込むことで自身のあやふやさから逃げている。そしてその枠に執着している。

そして、人にバレてしまったことから私は昔から持ち続けた「自分は何者なのか?」という問いに対して向き合うことにした。正直、私の行動は大半が突発的か打算に満ちているもので、どうも醜くて直視する事が不愉快だ。私は何者なのか……。

考え込むうちに、ますますわからなくなってくる。優しい私と残酷な私、責任感のある私と適当な私、多くの事柄に対して多くの面を持ちすぎている。一言で「これ」と言えるような人間ではないし、何者というレベルまで達するような外面はない。もし私がアイドルや大統領だったら、こんなに悩むことはなく自分は何者かになれていただろうにと思う。

しかし悩みに悩み考えていると、「何者かになる」ことに固執する事が良くないのかもしれないと行き着いた。地球の大半の人間はアイドルでも大統領でもない。なのになぜ私は彼らのような何者かになれると傲慢にも考えるのか?

多分、それは自身へのコンプレックスの表れなのだと思う。
私は自分のことが好きではない。不器用で覚えが悪くて往生際も悪い。そんな自分が嫌い。でも好きになりたい。だから他者から承認してもらえるような「何者か」になろうとしている。

正直ここまで書いたが、自分はまだ「何者かになりたい」と考えているしそれが悪だとも善だとも思わない。不純な動機から生じる承認欲求の行く末、それもわからない。いつか私は何者かになれるとだろうか、ただその心を漠然と抱きながら生きていくだろうな、と思う。


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