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ライブの見え方が変わる感動−『SAKANAQUARIUM アダプト TOUR』ライブレポ①−

先月の『SAKANAQUARIUM アダプト TOUR』日本武道館公演に参加してきた。コロナ禍になる前もサカナクションのライブにはしばらくは通えておらずで、何年ぶりか思い出せないくらいだった。そんな訳もあって、念願のライブだった。


ライブ全体を通じて、オンラインライブが目の前で展開していくその体験に終始感動していた。オンラインライブとリアルライブは別物だという感覚がバラバラと崩れ去っていくその斬新さが今でも忘れられないでいる。


その他にもグッとくるポイントはいくつもあった訳なのだが、それを下記の3つのパートに分けて振り返っていきたい。

・『multiple exposure 』〜『目が明く藍色』 
・『DocumentaLy』〜『忘れられないの』
・『三日月サンセット』〜『フレンドリー』

まずは『multiple exposure』〜『目が明く藍色』のパートだが、コンセプト重視のライブ空間であり、ライブの見方そのものを変えられた時間だったように思う。

今回のライブはオンラインライブと同様に『multiple compousure』で始まった。正直なところ、この選曲にはびっくりした。思わず自分の頭の中で「あれ、この曲なんだっけ?」と検索をかけてしまうくらいだった。でも、今になって歌詞を振り返るとこの楽曲が選ばれた理由も分かるような気がする。

そう生きづらい そう生きづらい 
そう言い切れない僕らは迷った鳥
そう生きづらい そう生きづらいから祈った
祈った
(注1)

コロナ禍において、日々目まぐるしく変わる状況の中で、どう動いていいのか確かに分からない瞬間はある。今回のライブだってそうだ。感染者が急増する中で、ライブに行くのに直前まで悩んだ。でも、どうしても諦めきれなくて、不安を抱えながらライブに参加して、それでも全力で楽しんだ。

これは普段の生活にも当然当てはまってくる部分もあると思う。以前よりも生活で気を使う場面が増えてきた一方で、色んな煩わしさから解放された部分もいくつか思い当たる。リモートワークだったり、外出自粛だったりがまさにそう。通勤から免れたり、無理をして予定を立てたりしなくて良くなった。先が見えない生きづらさはあるけれど、その分色々な煩わしさから解放された部分がいくつも思い当たる。

そんな訳で、このワンフレーズはコロナ禍における僕らの毎日を象徴しているように聴こえる。そんな生活を思わせる楽曲を歌うことで、気持ちをシェアするということ。まさにコロナの時代に「アダプト」するプロジェクトの始まりにはピッタリな1曲だ。


続くは新曲の『キャラバン』。スクリーンにツアータイトルが表示されて、「あ、ようやくライブが始まるんだ」というちょっとした安心感があった。『multiple compousure』とは変わって明るい雰囲気がある曲だ。ただ、歌詞をよく見ると、先行きの見えない不安が所々に感じられる。この曲から、ライブ演出の1つとしてキャストの川床明日香が登場するのだけど、彼女も得体の知れない箱に閉じ込められて、不安そうだ。それでも、明るい曲調で歌われると、どう転ぶか分からない不安はあるけれど、それでも歩こうよと少しだけ前向きに感じられるのが個人的には好きだ。


3曲目はこれまた意外な選曲の『なんてったって春』。滅多にライブでやらない楽曲というのもあるけれど、秋から冬に開催されている今回のツアーを思うと、どうにも時期外れな感じがしてしまう。

その違和感は続く『スローモーション』でも生じてくる。さっきまで「春」だった季節が一気に「冬」にまで飛ぶのだから。それを考えてみるに、ここでも僕たち私たちのコロナ禍を象徴しているんだと言える。これは『スローモーション』のフレーズで気が付いた。

だんだん減る
だんだん減る 
だんだん減る未来 未来

だんだん知る
だんだん知る
だんだん知る未来
(注2)

確かにコロナ禍になって、僕らの未来は顕著な形で減ってしまった。感染拡大防止として、2年前と変わらず自粛生活を強いられる。少しずつ状況は変わっているようでいて、僕らの生活はなかなか好転しない。以前のような規制は解除されてはいるけれど、僕らはずっと耐えている。そんな状況が好転しない毎日の中で、僕らの時間は奪われているわけで。そう、僕らの「未来」は確実に段々と減っているのだ。そしてこの状況はなかなか落ち着かないという未来も知ってしまっている。季節は春から夏に、夏から秋にと変化しているのに、僕ら自身は何も変われないでいる。ずっと置いてきぼりをくらっているような感覚だ。そんな変われないもどかしさを表しているのが、季節の変化になぞられた『なんてったって春』から『スローモーション』への流れの意味だったと考えている。

そんな分析もあって、この『スローモーション』がより好きになったのだけど、ライブの演出の面白さという点でもこの曲は見逃せない。

先ほどの『キャラバン』で閉じ込められていた川床明日香がステージ上に登場する。誰かを待っているのか、ステージ上層部に設置されたベンチに腰掛けながら降る雪を見つめている。この切ない雰囲気に『スローモーション』がマッチしていて、胸が切なくなる。

注目したいのが、スポットライトの使い方だ。彼女が登場したパートでは、この光が彼女を中心に当てられて、2番ではサカナクションへと戻っていく。1つのステージの中で、ライブと同時に演劇を見ているかのような体験は今までになかった。実際、ライブ会場にいると、ライブを見るか演劇を見るか自由に選べるようで、これも斬新な体験だった。サカナクションのライブと川床明日香の演技というハイブリットな演出の仕掛けも間違いなくこのライブの見どころだろう。

加えて、26日の公演ではステージにかなり近い座席ということもあって、実際に肩に雪(雪に似せた泡だったけれど)が降り積り、雪が降っている中でライブを見たような感覚になって、これもリアルライブならではの体験だった。

その後は『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』、そして新曲の『月の椀』へと続いていく。

『バッハ』のアウトロから『月の椀』への繋ぎがとにかくカッコ良い。特に草刈姐さんのベースが心地良い。ドラムとシンセに合わせつつ、次の音作りをしていくその音作りに痺れる。『月の椀』に入ってもベースのカッコ良さは衰えない。加えて、草刈姐さんによるコーラスも良い。個人的にこの曲は草刈姐さんのフィーチャー曲として覚えておくことにする。音源だとどう違って聞こえるのか、その違いが俄然楽しみになってきた。

あと、『月の椀』はシンセを中心にした音作りがどうにも『陽炎』を思わせる。正直、オンラインライブで聴いた時は「あ、これは『陽炎』だな」と間違えてしまうくらいだった。きっと『陽炎』から派生したのがこの『月の椀』なのだろう。こちらも聴き比べてみたい。

そんな『月の椀』で盛り上がった流れで披露されたのが『ティーンエイジ』。これも意外な選曲だった。この曲が今回のライブを経て、サカナクションのお気に入り楽曲リストに加わった。そこまで惹かれたのは、曲の良さに気が付いたというのもあるのだけど、川床明日香の演技がこの曲とがっちり重なって離れないからだ。イントロではステージの個室の中で何かに思い悩んで塞ぎ込んでいる。そんな彼女の内面を何が支配しているか分からないけれど、その気持ちを『ティーンエイジ』の歌詞がなぞらえていくようだ。

後半に進む中で、その苦しみが抱えきれなくなったのだろうか、個室の中でもがき苦しみ始める。歌詞の「いきり立って」も力強く歌われ、演奏も激しくなっていく。そして、アウトロ部分では、山口自身も頭痛を抱えているかのような苦しそうな表情を浮かべる。一方で彼女も頭を抱え、叫んだり、泣いたりしているのだが、その合間で不気味にも笑うなど目まぐるしく表情を変えていく。ちょっとこの演技には恐怖を感じてしまった。

ただ叫ぶとか狂ったように笑うのではなくて、それを一瞬で切り替えて色んな表情を見せてくれる。叫んだと思ったら、次のカットでは狂ったような笑顔を見せている。ますます彼女が今どんな気持ちでいるのかが掴めない。「彼女は怒っているのか?」「悲しんでいるのだろうか?」と見ているこちらを困惑させるくらいに彼女自身が自分の気持ちを見失っていることが痛々しいまでに伝わってくる。加えて、ここで彼女の笑い声、叫び声も入っており、よりその切迫感がこちらに迫ってきて、思わず映像に見入ってしまう。

歌詞の中で描かれている「いきり立つ」という感情を一言で表すのは難しいと感じていたのだけど、川床明日香の叫びから狂った笑顔というように様々に切り替わっていくそのごちゃ混ぜな感情こそ「いきり立つ」という感情なのだと分かった。曲を聴く、歌詞を読むだけでは見えなこなかったその気持ちを彼女の演技が教えてくれたからこそ、僕の中でこの楽曲がより印象深く刻み込まれている。

そんなかき乱れた感情を続く『壁』で落ち着かせていく。ほぼ暗転に近い照明ということもあって、『ティーンエイジ』のように表情は見えない。むしろ、川床明日香がブロックでステージ上の映像を見えなくしていくその行為から、より自分の気持ちに蓋をしていこうという想いすらも伺える。一部が見えるようにという配慮もなく、そこには迷いがない。自殺を歌った楽曲ということもあり、よりその虚無感が増しているのが今回の『壁』だ。

そんな蓋をした感情に救いの手を差し伸べるのが『目が明く藍色』だ。元からこの曲は好きなのだけど、今回のセットリストで聞くと、何だか「良かったね」という嬉しい気持ちになってしまう。その理由を川床明日香の表情とこの曲の歌詞に注目して考えてみる事にする。

まずは表情に関して。ここまでを振り返ると、彼女の表情は悲しみに満ちていると思う。だが、この楽曲のラストではその表情が微笑に変わる。「微笑」と書いてしまうくらい僅かに口元が緩んだようだ。『ティーンエイジ』でも笑顔はあったけれど、それは狂ったような笑顔で、あまりポジティブなものだとは言い難い。表情の変化はここまでは見受けられなかったここまでのライブの展開を思うと、唯一の感情が変化する場面だと言える。推測だが、彼女の状況が好転して、結果喜びという事に至ったのは十分に考えられると思う。

では、この変化を今度はこの曲の歌詞に沿って考えてみることにする。こうして改めてライブ演出と照らし合わせながら歌詞を読むと重なっている部分は多い。ただライブに比べて、「泣いた」が多用されていたり、動き出せない「僕」のもどかしさだったりと感情を想起させる要素が出てくるので、その「悲しみ」は比較的読み取りやすい。

そして、ライブの中の彼女同様に悲しみに暮れていた歌詞にも感情が動く瞬間がある。それが下記のフレーズだ。

悲しみの終着点は歓びへの執着さ
(注3)

この場合の「歓び」は「喜び」と言った方が分かりやすいかもしれない。泣いたり、もどかしさだったりで悲しみに暮れた「僕」が結果として、それは「喜び」を求めていると言う事に気が付く。歌詞上の「僕」がどんな表情をしているか読み取れないのだけど、確かに感情がネガティブからポジティブへと変化している事は分かる。

ここで再びライブ演出へと戻ってみる。先ほど書いたようにこれまで一貫してネガティブだった彼女の表情が、この曲では唯一「微笑」へと表情を変化させている。実際、先ほど引用したフレーズが歌われる瞬間に映像の中では彼女は海辺を走り始めてもいる。明確に何が解決されたとか、何が悲しみをそう変化させたのかは分からないのだけど、ここに楽曲とライブ演出をシンクロさせようとした意図は読み取れる。

加えて、この曲のラストでは、ステージ上で山口一郎と川床明日香が手を繋いで一つになるという感動的なシーンで締め括られる。これは言うなら、曲を生み出し、そしてライブを引っ張ってきた山口とライブ演出を担ってきた川床が1つになった= 確かに重なった瞬間だと言えるだろう。

ライブを見ていた瞬間には言語化できなかった僕自身の「良かったね」という気持ちは、この『目が明く藍色』とライブが目の前でシンクロする瞬間にあったのだと考えている。

という訳で、ここまでが『multiple exposure』〜『目が明く藍色』のパートなのだが、ライブの展開を振り返ってみると、このパートは極めてコンセプティブな空間だったと言える。

それは、ライブの根幹を成しているアダプトプロジェクトという企画が前提としてある。

ただ、今回のライブだけに限ってもライブ自体に色々な仕掛けが施されていた。目の前で行われているのは確かにサカナクションのライブなのだけど、俯瞰して見ると、色んなものが同時進行で行われている。そんな空間に対して、純粋にライブへ参加しよう、一つになろうという意識よりかは、目の前で演奏されている曲をどう聞いて、ライブの中で起こっている演出をどう捉えようかという俯瞰的な意識を働かせていたのがこのパートだった。

このコロナ禍での生活を感じさせるセットリストに、僕は自分自身の生活を重ね、共感する。そして、ライブ演出に加えて、舞台のようにキャストを配置することで、ライブ空間の中にMVとしての捉え方も生まれていく。それと同時に、その演出は楽曲の世界観をより拡張していくようにも見受けられた。

ここまでを振り返って思うに、そんな新たなライブ体験を自分の中で芽生させるきっかけになったのが、このパートの役割だったと僕は考えている。ライブを通じて、新しい価値観と出会えたこの感動を、今こうして振り返る中で確認しているのだ。

では、それ以降のパートはどうだったのか?「ずっと俯瞰的に捉えられていたか?」と問われればそうではない。先ほど書いたような体験とはまた違った感動が待っていたと感じている。それは簡潔に言うなら、かつてのライブ体験を取り戻していく感動なのだけど、それは次回に続きます。

▽注釈
注1 サカナクション 『multiple exposure 』 作詞 山口一郎
注2 サカナクション『スローモーション』 作詞 山口一郎
注3 サカナクション『目が明く藍色』作詞 山口一郎

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