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原理主義者に対抗するために

こんばんは。寺戸慎也(てらどしんや)です。

突然ですが、僕はテラスハウスが大好きなんです。ファーストシーズン(?)から見てましたし、現在進行形でNetflixで火曜日0:00に配信されたらすぐ見ていたぐらい。

先日、出演者の木村花さんが亡くなりました。SNS上での誹謗中傷が原因と言われています。

花ちゃんの死を通じて、考えたことを残しておきたいと思います。

リアリティとバーチャルのコントラスト

人の死というのはいろんな形で引用されていきます。僕もその一人なのかもしれないけれど、残されたものにはそうやって死を通して考えることしかできません

僕が花ちゃんの死を通じて感じたことは、リアリティVSバーチャルの構図です。

当時SNSで誹謗中傷を繰り返してきた人間は「アカウントを削除」しました。これはバーチャルな死です。

一方、花ちゃんは、「木村花」として生きている生身の人間です。花ちゃんはもう戻ってきません。

この事実に、強烈なコントラストを感じました。

本文では「バーチャル」という言葉を使っていますが、要は「記号的」という意味です。「電子的」といってもいいし、とにかく誹謗中傷を繰り返していた人達は身体性からかけ離れた記号的なものです。

身体性のない行為は暴走する

記号的なもの=身体性がない行為は暴走します

例えば、歯医者にいって麻酔をかけたとき、口の一部から身体性はなくなります。その時に気づかない内にやけどしてしまうことがあります。

Twitterではアカウントは本名にする必要はありません。主にTwitterにおいては多くの人が、匿名アカウントを作り、「アバター」としてSNS上で操ります。アバターとして存在するとき、誰かを攻撃した際に感じる「痛み」を鈍麻させます

一方で、誹謗中傷しようとするとき、その対象者とリアルに対面していたらどうでしょう?

「こんなこと言われたらいやだろうな」とその人の痛みに共感してブレーキがかかるかもしれません。または、「反撃されるかも」とリスクヘッジのために発言しない人もいるでしょう。

このように身体性はコミュニケーションにおいてブレーキをかける役割を担っています

SNSでは身体性が希薄になります。それが誹謗中傷を生みやすい原理だと僕は思っています。

対策はリアルとバーチャルが混同しない空間づくり

法規制を含めて、どうしたら誹謗中傷や、それによる死を防ぐことができるかが議論されています。

僕は2パターンあると思ってますが、基本的にはリアルとバーチャルと混同しないということです。

1つは、バーチャルにリアルな情報を紐づけるということです。匿名性を持たせつつも、その発言に問題があればそのアカウント主にも制裁が加わるということ。法規制ですね。

ただし、法規制があったとしても(現在でも誹謗中傷については訴えは起こせるわけですが)、膨大な数のツイートから攻撃性のある投稿を察知、排除するには膨大なコストがかかります。

そこでバーチャルをリアルに近づけない、というもう1つの方法が浮かんできます。バーチャルでは、誹謗中傷の内容が書けないように縛りをかけてしまう、これはSNS等のプラットフォーム上の規制です。

バーチャルとリアルの混同をさけることが、誹謗中傷による被害を防ぐために必要なことだと思います。

SNS原理主義者はブロックする

身体性が担保されていれば誹謗中傷は起こりにくい、と述べてきました。逆を言えば、身体性がなければ、人は基本的には暴力的な存在だ、とも言えます。

人間の思念は、常に動いていますが、その中には憎悪もあります。その発現を抑え込んでいるものが身体なんです。

身体性を持たない人=アバターとしてSNSに存在している人は、他のアカウントについても同様にその身体性を重視していません。

花ちゃんに「消えろ」といった人は典型的です。人間は「消える」ことはできません。「消す」というのは記号的操作に対する言葉です。

こういう「記号的操作」をする人たちはSNS空間自体を、現実とは違う別次元の空間ととらえているのではないでしょうか。そして空間を1つの価値観に統一しようと他者を「消し」に回っている。

こういう人たちを僕は「SNS原理主義者」と名付けました。SNS内にしか存在しない原理主義者です。

SNSの中で身体性を持った実名アカウントがうまく生きていく術

①発言者が「SNS原理主義者」であるかどうかを見分けること
②「SNS原理主義者」から攻撃を受けたらブロックまたはミュートすること

以上。ALL ENDです。

SNS原理主義者は、アバターによってその攻撃性を発現させることを重きをおいているので、そんな人と付き合う必要はありません。

世界はたくさんある

養老孟司さんの記事が話題になりました。

今の社会は「対人の世界」だと指摘されています。SNSはまさに「対人の世界」が個別に切り離されたものです。

養老先生が語るように、この世にはたくさんの世界があります。SNSはその無数にある世界のうちの一つでしかありません。

僕は普段「対人の仕事」をしていますが、その一方で自宅では内向的な人間です。家では読書か一人でギターをもくもくと演奏しています。「対物の世界」に身を置くことでバランスをとっているのかもしれません。

原理主義者に対抗するには、その原理主義者を自分の世界に包括してはいけません。僕は単一の世界観を持つ人間だけは危険因子とみなします。

インクルーシブな社会は他者を尊重できる人しか住人になり得ないんです。それもある種の原理主義的であるのかもしれません。

ただ、僕は原理主義者だけは受け入れられません

純粋な原理主義は身体性を排除するものだからです。だって自分の考えが正しいことを証明したい人が最終的に願うのは、自分と別の考えを持つ人がすべて「消えること」なんですから。

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