北の果ての鉱山開発4(腹ペコ)

 名寄線の下川駅から10キロの所に、中継所があって機材を運ぶ馬橇は、
峠の手前のこの場所までは行く。


 馬橇で夜具、行李は運んでくれたが、トランク、リックは自分で運ぶ
建設が急がれていたから 自分で運べるものは自分で運ぶ 機材の輸送が優先だった。
 ある時期までは、そうした考え方も通用したが、建設が一段落した後は新参者に冷たい事業所と言う受け取られ方にもなった。

行李:ウイキペディア引用(https://wikipedia.org/wiki/行李)

 それはともかく、鉱山開発は戦場に似た厳しさを伴うものと私は思う。リックを背負いトランクを下げての雪道は若者にとっても楽なものではない。初めての道は聞きしに勝る遠さであった。靴の下で雪が鳴った。「俺は何故こんな目に逢うのか」と何度も思う。それは、私だけでなく下川に送り込まれた人達が、間違いなく味わった感慨であったろう。雪に埋もれた農家と田畑は途中までで、それから先は原生林を切り開いた一本道であった。

 ようやくの思いで、中継所に着く。沢が幾分広くなった所に木造のバラック建ての飯場が何軒か連なっていた。その飯場の一角が事務所のような形をしていたので、手間を取らずにそこを訪れることが出来た。もう昼食の時間になっていた。今朝、夜行列車を名寄駅で降り、名寄線の一番列車を寒い待合室で待ち、乗り換えて到着した下川駅は雪に埋もれ暗かった。駅前の粗末な指定旅館で朝食を済ませ、そこを出たのが9時頃であったから、10キロの雪道を3時間かけ歩き通しで、腹はペコペコであった。

 挨拶もそこそこにして、飯を所望した。恥も外聞も無く忘れていた。
雪道を歩いた経験者には理解して貰えると思うが、土の上を歩く何倍も疲れるし腹もへる。途中、何度も雪を食べたのだが食物の代わりにはならなかった。ともあれ、飯場から飯と味噌汁に漬物が届いた。夢中で食べた。

 中継所の責任者は、手稲鉱山から転勤していた年配の電気技術者であるが、この人の仕事は、鉱山で使う電力を市街にある変電所から受け入れる鉱山の変電所の監督であり、この地に勤務していた。
ここには、鉱山の主要鉱外設備が造られることになっていたので、そうした工事に必要な機材の受け入れや、新しく鉱山に来た人達の世話も受け持っていた。

 この中継地付近を鉱山関係者は ペンケ と呼んでいた。
アイヌ語で、手前の沢と言う意味なのだそうだ。
 私が勤める峠の向こう側の場所は、パンケ と言うが、向こうの沢と言う意味だそうだ。先住の人々がどこを基準にして、そう呼んだのか分からないが、駅から歩くと確かにパンケはペンケの向こう側ではあった。

 食事が済んだ後、空腹が満たされ安堵感の中、少々ぼーっとしていたが、その間に、責任者の電気技術員が食器を片付けてくれた。非常に申し訳ないとい思いながら年長者の彼の後ろ姿を黙って見送る事になった。手稲時代は上司の言葉でも、気に入らなければ自説を曲げる事の無かった頑固なその人の背中は、今は何故か随分と丸まったように見えた。

続く




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