北の果ての鉱山開発8(重役が喜ぶ田舎の料理)


 落合沢を上流に向かって、10分程登ったところに、私達の宿舎があった。
積雪の中から、青っぽい白色のペンキを塗った壁板が、のぞいていた。

 この建物は、手稲鉱山の昔の病院を解体して運搬し、この地に再建したものであった。そのような手間を掛けても、採算が合ったのか、そうするしか宿舎のような非生産設備の資材が無かったのか、今となっては確かめようがない。

 いずれにしても、道都 札幌市 の郊外と言える手稲山の麓から、道北の山奥まで移転したのは事実であったし、その建物が鉱山の迎賓館の役割と、鉱山主任以下の幹部宿舎になっていたのである。

 赴任した日の夜だけ、奥の特別室に泊めて貰えるしきたりがあった。
職員合宿で飯だけ食べて、近くの社宅に分宿人達が多かった。
 私もその一人なのだが、合宿の来客用の部屋で迎えた翌朝、掛け布団のえりもとが、白く凍り付いていたのだった。

 寝ている間の吐息が、凍って付いていたのだから、当時の寒さの見当がつきそうである。

 実感として、とんでもない所に来てしまった、と思った。
 でも、もう逃げられないと覚悟を決めたのであった。

 一方、当時の世間と比べると、食料事情は良かった。豆の入った飯ではあったが、自由にお替りができたからだ。

 夏の間にとった山菜の漬物、塩干魚の類が副食で、今の時代に比べると粗食の一言につきるのだが、飯を腹一杯に食えることは、副食についての不満を消した。

 合宿の賄い方(食事作りや世話をする人)を、おやじ と言ったが、若い頃、北海道では一番と言うくらい名の通った、北海ホテルで修業したとかで、東京の本社から重役が来山すると、どこかに隠していた缶詰を切って、洋食らしきものを作った。

 慰労の意味で、その夜、職員合宿にいる者達は、おすそ分けに預かる事になるのだが、鉱山にいる者以上に、東京暮らしの重役が、その料理を喜んだというから、山奥でも東京と比べても、味は良かったのかも知れない。

 私も手稲の友人に、手紙でこう書いた「飯ごうにギッシリ飯を詰め、蓋で押しつぶして寮を出る、それを食う時、君達の顔を思い出す。間もなく兵隊だなぁ・・・」と。

 確かに手稲でも、一般の社会でも、腹一杯と言うのが難しくなっていたのだが、下川の山奥で、それが許されたのは、ともあれ嬉しい事であった。

 当時、主食は勿論配給制であったが、交通が不便で雪の深い土地であったから、雪の来る前に、大体の見通しで米俵を運び上げた。

 越冬米と言われた通り、こうした地域に特有の制度ではあったが、国策に沿って銅鉱石を掘り出す人間が、この村に、どんどん、入り込むのであったから、役所の方も、多い目に送り込んで、大事に扱ってくれたものと思う。

 稲作北限に近いとはいえ、米産地と言う条件がそうした気持ちを、生かしえたのかも知れないが、後で考えると、こうした米との縁は、昭和19年までであった。

続く


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