北の果ての鉱山開発(終戦直後1)
目次
終戦直後の事
半島人とのトラブルと意外な関係、そして帰国
豊羽からの旅
そして上の国へ
終戦直後の事
昭和20年9月中旬、約一年の軍隊から解放された私は、鉱山に復帰した。
前年、「徴用になっているから、兵役は当分考えなくてもよい」と鉱山長から言われていたが、同じく徴兵検査を受けた者達の中で、むしろ早い入隊通知を受け、旭川、恵庭で軍隊生活を送っていたのだ。
軍隊生活と、除隊については、また別に記録する。
階級章の無い軍隊服で、下川駅に降り立った。駅の裏の出張所前から軽便軌道の蒸気機関車 義経号 が引く台車に乗って鉱山に向かった。
この軽便軌道は、以前から御料のガソリンカーが、ペンケの沢の奥深くから木材を運び出していたレールを、列車ダイヤの空いている時間に利用させてもらっていたのだ。
雪のない間、人々は御料のガソリンカーの引く材木列車に便乗したり、義経号の引く鉱石輸送用のトロッコに乗って、下川の市街地への往復に利用した。
物すごい黒煙を、蒸気の力で吹き上げて、義経号はペンケの沢を上る。
頭から煤を被るので、布でホホかむりして汚れを防ぐのだが、露出している部分は防ぎようがない。
更に、火の粉さえ飛んでくるので、衣服を焦がす事さえあった。
中間点で停車し、機関車に給水する間に、人々は手足を伸ばした。
ほんの一年しか経っていなかったが、鉱山に入ると、選鉱場が完成していた。木造ではあったが、威風堂々として、沢の一角に君臨しているのに驚いた。他にも色々と建屋が増えていた。私の不在の間に、半島人も含め、残った人々の頑張りの結果であろう。
台車を降りると、旧知の人達と顔を合わすが、鉱山には敗戦の暗さはなかった。事務所も、ここに主力が移って、以前パンケにいた人達の多くがここにいた。診療所も購買会もこちらが主力となっていた。
社宅もバラックに毛の生えた程度の物であったが、事業所の川上、川下に作られていて、小学校も開設されていた。
この一年の変化は、夢のような発展を遂げていた。
私は再びパンケに勤務するので、雑然としてはいるがニギヤカなペンケを後に、峠を越える事になった。
索道は依然と同じくカラカラと音を立てていた。
パンケに入って、先ず気が付いたのは、作業者の姿が少ない事であった。
敗戦と共に、春田組が解散し、集団移入の半島人は就労を拒否していたから、作業者は内地人だけになっていた。
前の年、(昭和19年)函館の近くにあった三盛(みつもり)と言う硫黄山から移った人々が加わっていたとはいえ、それまでの大勢力の半島人がいないとなれば影響は大きい。出鉱量の低下につながったのである。
食料をはじめとする生活物資は、出鉱減に拍車をかけた。消費人口の増加に加え、前年の未曽有の冷害は、さしもの鉱山の貯蔵米も底をついた。
補給は以前とは違って、世間並となっていた。
主食の欠配は、南瓜、馬鈴薯によっても補い切れない要素がある。
米が無いのに働けるかと言った気持ちが、日々の生産活動に反映した。
会社幹部の職員合宿でも食料事情は同じである。軍隊から貰って帰った衣料上、下を馬鈴薯5俵と交換したが、ほんのひと月しか持たなかった。空腹を抱えている四、五人の若者達と共に、これを片付けたのである。
人間にとって食べ物は、空気、水に次ぐのだが、山奥の集団生活にとって、食料不足は全く深刻な問題であった。どうしようもない混乱が、鉱山に流れていたのである。
半島人とのトラブルと意外な関係そして帰国
食料に誰もがイライラしている頃の話である。
半島人寮で騒ぎが起きたとの事でパンケの事務責任者である上司が、寮に赴いた。呼び出されたのであったかも知れない。
少しして、その上司を先頭にして半島人の集団が、事務所に向かってやってくる。責任者の上司の目は、明らかに援助を求めていた。
一行が購買会にむき出したのを見て、吾々は事務所を飛び出した。吾々と言うのは、残念であったが労務係の者だけであったが。
購買会の入口で上司と一緒になったが、そこで騒ぎが大きくなった。
と言うのは入口の近くに米俵が置かれていたのだ。半島人たちは「米が有るではないか、ウソを言った」と言うのである。
もう食べるものが無いと言うのが、騒ぎの発端であり、それに対し購買会には、もう米が無いという上司の説明に納得せずに、購買会を確認に押し寄せ、そして、入口で米を見たという図式であった。
これはもう「お前たちに配給する米はない」と言ったところで、局面を解決する力はなかった。すでに、感情の問題となっていたし、それは暴力沙汰になってしまった。
上司の前に労務係は立ち並んで、彼らの暴力から上司を守った。だが、多勢の力には到底かなわない。ズルズルと押されて細長い倉庫を、奥へ奥へと退いて行く。
抑えようとするが、止まらない。もうこれ以上に奥がない所まで押し込まれ、彼らの頭突きを受け始めた時、彼らの三、四列後方にいた者が、履いていた手製サンダルを両手にして仲間を打ち、制止の側に廻った。
それに何人かが同調した。「先生に乱暴するな」と言って吾々に頭突きしようとしていた仲間に、力加減の無いサンダル攻撃を行ったのだ。こうした状況の中、倉庫の入口まで戻ったのであるが、結局のところ前借りの形で乏しいコメを渡してしまう結果になった。
パンケでの騒ぎは、その一回だけであったが、12月に帰国するまで、彼等は、地元の農家に出掛けては、牛をはじめ食料を購入して、小口の商売をした。
牛を買って数人でパンケまで追って来るのだが、時には峠で立ち往生の牛も出る。そこで、解体した肉が、彼らに背負われてきた。
こうした牛肉で、少し黄色を帯びた軟らかくて美味な肉の分け前を貰った事が有る。夜分人目を避けるようにして、肉塊が届けられるのであった。そうしてくれる半島人の考えは確かめようがないが、深く考えず有難く頂戴したのであった。
12月になって彼らの帰国の順番が来た。彼らは、軽便鉄道に鈴なりに乗車して、大韓民国の万歳を続けた。
大きな旗を振って鉱山を離れて行ったが、大きな虚無感みたいなものが、しばらく鉱山に残ったのである。
鉱山開発に関しては、心の中では同志であったとも思える。
豊羽からの旅
半島人が帰国する直前のことである。
鉱山は、特に出鉱と直接関係のある坑内夫の補充に腐心していた。どうしても坑内夫の充足が必要であった。
その頃、札幌の郊外にある日鉱の豊羽鉱山が休山するとの話があって、豊羽では従業員の世話に困っているらしいとの話が流れてきた。
昭和19年11月の中旬だった。採鉱技術者と二人で現地に出掛ける事にしたが、米が全く無いので外食券を持ち、リックに馬鈴薯を入れて出発した。定山渓温泉に宿を取ったが、案の定米の飯は出ない。茶碗に乾パンが入っていただけであった。
それでもストーブがあり、鉄ビンで薯をたく事ができた。
煮こぼれた汁で、黒い鉄ビンが白く染まり、洗っても落ちないという、おまけがあった。旅館には申し訳なかったが。
翌日、途中まで専用鉄道の世話になり、豊羽区山を訪ねた。そこの労務課長は早速応対してくれて、一人でも多く連れて行ってほしいという。
私と同郷小樽のかつての、オリンピック陸上候補選手であった。
立派な弁当が出たというところを見ると、本当に従業員の就職斡旋をしていると思えた。
その頃の豊羽の事であるが、敗戦の前に間違って、川底を掘り当てて、坑内が水没してしまい、採鉱ができなくなっていた。吾々が行った時、対策として川の流れを切り替える工事が進められていたが、数年後の現在、稼働が戻っているのは、それが終わり、坑内の排水も成功したからであろう。
さて、こうした状況の中で、10人ほどの採用を決め、その日から荷造りに掛かると共に、家族を含めると50人近い人数なので、汽車の切符を手配するため札幌に出た。
まだ鉱山統制会はあったが、敗戦によって、それまで力のあった者も、力を失っていた時代である。簡単に切符が手に入らない。
苦労に苦労を重ねて、ようやく乗車券を入手したのは、出発当日であった。豊羽からの日鉱専用列車はともかく、私鉄の定山渓鉄道も利用して人々は苗穂駅に出てくる。
その人達を待ち受けて、国鉄本線の夜行列車に乗車させることにして国鉄と掛け合って専用車を一両つけてもらう事にしていた。
その夜になって、老若男女一行50人が、ミゾレの降る中を苗穂駅に集合した。だが、到着した列車は満員で、何と、専用車両は連結されていない。駅長にいくら喚いても、どうにもならなかった。
駅長をはじめとして、駅員総出で各デッキに分散乗車させて、やっ発車したのであった。一晩中、私は各車両を渡り歩き、皆の安全を確認するという事になってしまった。泣く暇などなかった。
夜明け前、名寄に着いた。暗い道をゾロゾロと約束の旅館へと歩いた。
こうこうと燃えるストーブの傍らで、幼児の寝顔を見て、申し訳ない気持ちになったものである。
しかも、このようにして下川に到着した人々を収容するバラックには、畳が入っていなかった。窓の障子も破れている。そうした家に、その人達は文句も言わずに落ち着いてくれた。ムシロの上の生活だったのである。
この先、国がどうなるのか定かでない時期であったが、出鉱第一で操業しているとは言え、受け入れ側として、もう少し人に対する対応も考えてくれる仲間がほしかった。
そして上の国へ
半島人が帰国して昭和20年が暮れた。復員してきた人の中で、鉱山に職を求める人達もあったが、坑内夫は依然不足していた。
石炭山の労働条件、配給を含めると金属鉱山は、大きな不利があった。
当時、傾斜生産と言う言葉で、日本の復興に優先産業が指定されて、石炭、電力、製鉄、配料などが優先されていたのである。
そうした頃、道南の上ノ国鉱山が整備されるという情報が入って、募集に行く事になった。民謡で有名な江差追分の里ではあるが、下川から遠い。
北海道でも北と、南の正反対なのである。この地方から食料にする澱粉を求めて買い出しに来る人も多く、そうした縁で下川鉱山に移る人達があった。その中に後日労働組合長になる、久保田 功一家が含まれている。
彼等とは、直接的な結びつきはなかったが、坑内夫ほしさもあり、採鉱技術者と二人で、人集めに出掛けた。
豊羽の募集に懲りて、米と飯ごうを持参した。旭川を中心として北海道を縦断する形で、国鉄の宗谷本線、函館本線が走っている。函館からは江差線に乗り換えて終点ひとつ前の「上ノ国」駅で下車する。一日がかりの旅となるのであった。
その後が、徒歩で20キロ、右手に海が見え隠れする凍てついた道であった。二人はもう話す事もなくなって、黙々と歩くだけだったが、背中のリックに米が有る心強さを持っていた。
ようやくの思いで、石崎と言う漁村に着いた。北洋漁業に人を世話していたという、その仲介人の家で鉱山に行きたいという若者達と逢って、採用を決めたが、娘さん二人を抱き合わせで採用せざるを得なかった。
この家は、部落でも、しっかりした造りであったが、ストーブの上の鍋の中身は海藻であった。山からすぐに海になる土地であるし、冬で魚も取れない時期である。その家の主婦は「この辺は、こうしたものしか無いんで」と、情けなさそうな顔で、つぶやいた。
下川でも米の飯は難しかったが、澱粉の団子があるのは恵まれていたのかも知れない。娘さん二人は、口減らしの対象だった。
その二人を含めて、7人の若者達と漁村の石崎を出発した。前金が欲しいという話もあったが、それは断った。金を持っていなかったのである。
この若者達は函館本線に乗り換えた頃から、早くも空腹を訴えだした。
下川から持参した米を炊かせ、握り飯を作らせて下川まで持たせる予定であったが、彼らはすぐに全部食べてしまったという。汽車の中で叱ってもはじまらない。駅弁を売っている時代でもなかった。
渡していた米を、本当に全て食べてしまったのか、一部を家族に置いてきたのか迷ったが、世話人の家でさえ海藻がオカズの生活を見れば、もう、過ぎ去った事として次の手を考えねばならなかった。
同行してくれた採鉱技術者にも申し訳なかった。
そこで、小樽で下車し、何とか暮らしている兄を頼ることとした。旭川で乗換列車を待って、一行と落ち合うことが出来る事を、しつこく車掌に確認した結果、その手が可能だと分かったからである。
小樽で大至急、飯を炊かせて次の列車に飛び乗った。そして一行に間に合ったのであるが、こうして連れてきた連中も、翌年春と共に鉱山から消えて行った。二人の娘さん達だけが、やがて鉱山の若者と結ばれたのが、救いであった。
北の果ての鉱山開発(終戦直後2に続く)
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