見出し画像

東京大空襲 (前編)

私は、東郷二三子、と申すものです。
1945年のその日、私は東京におりました。

当時17歳であった私は、生まれ育った田舎を離れて、
東京にある小さな繊維工場で働いておりました。

「繊維工場」と申し上げましたが、
その実、軍服ばかりを毎日作っておりました。

当時の日本は、国が一体となって戦争に勝つ、
そういう気概で溢れておりました。

繊維工場でも、機械工場でも、
軍関連の製品を強制的に作らされました。

少しでも私益に叶うことをすれば、
大本営からの罰則が加えられておりました。

その日も私は、いつものように軍服を作っておりました。

同僚だった私より若い女性が、針で指を刺してしまい、
とても痛がっていたことを、何故か覚えております。

工場での仕事は、現在の表現で言えば「激務」でございました。

午前8時の朝礼から始まり、昼の30分の休憩をはさんで、
業務は毎日、午後10時頃まで続いておりました。

勿論、誰も不満など申しません。
申せる環境では、ございませんでした。

「激務」などという表現は、存在しませんでした。

皆様は、「月月火水木金金」という言葉をご存知でしょうか。
大本営が考えた、悪しき表現でございます。
簡易に表現するのであれば、「休日など存在しない」ということです。

戦下の環境というものは、人間の感覚を異常にするものです。
私も、その被害者の一人でした。
大本営の叱咤に押され、我々は無我夢中で働きました。

その日の、午後9時頃でした。
連日の「激務」に疲れ果てた私の意識は、朦朧としておりました。
あと二着ほど軍服を作れば、その日の業務は終了でした。

それは、突然でした。
突然、警報が鳴り始めました。

当時は毎日のように訓練が行われていたので、
警報の音は聞きなれておりました。

しかし訓練は日中、それも十分な事前勧告がされた上で、
行われておりました。

意識が朦朧としていた私は、即座には反応できませんでした。
しかし、隣に座っていた同僚に、揺り起こされ、
やっと何が起こっているか、認識しました。

私の周りでは、既に逃げる準備が始まっていました。
自分の財布のみを掴み、走り始める者。
どうすればいいか分からず、慌てふためく者。
皆、様々でした。

私は、取り急ぎ自分の風呂敷を掴み、
工場の外に走り出ました。

爆撃は、既に始まっておりました。
燃えている家屋が散見されます。
空が、紅くなり始めていました。

警報が鳴っている側の空を見上げた時、
自分の体が恐怖に包まれるのを感じました。

あれ程多くの飛行機、否、爆撃機が飛んでいる光景を、
私はこれからの短い生涯、忘れることはありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?