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「冗長」その②・ITから学ぶ人生格言

前回からの続き

<人の体にも共通するリスク>

 ①許容量を超えたときのリスクが甚大であること
 ②ピークのコントロールが難しい

 以上のことから、「冗長」ともいえる無駄や余裕が、甚大なリスクを減らす緩衝剤の役割をし、ITの世界において、非常に重要な働きをしているということが分かった。

では、人の体はどうだろうか。
例えばストレスを溜め込み、本来許容できる量を超えたとしたら。
ある人は、以降も続く重篤な精神障害を生み出すかもしれない。
酷い場合は命を断つという選択まで視野に入ってくる場合があるかもしれない。
その他にも、容量を超えることで後に修復することが困難な症状はいくらでも挙げられるだろう。

 そして、そのストレスの発生と量は、あなたがどれほど管理できるものだろうか。
恐らく、自信を持って完全にコントロールできると感じている人の方が珍しいだろう。
将来、どのようなことが降りかかってくるかなんて、全くわからないのだから。

<冗長的な考えは人の体にも導入すべきでは?>

 そこまで考えると、ITのシステムが抱えるリスクも、人の体が抱えるリスクも大差ないように思える。
ということは、冗長という考え方の重要性が、人の体にも当てはまるということではないだろうか。

 ましてや、自身にとって、自分の体よりも優先すべき事項なんてそうないはずだ。
それなのに、バックアップや部品の入れ替えが可能なITシステムに冗長的な考えを取り入れることが肯定され、代えのきかない自身の生活において無駄や余裕が否定されるというのは、理に適った考え方とはいえないだろう。
むしろ冗長的な考えを取り入れる優先度は、誰にとっても高くあるべきだ。

<まずは自身の無駄と余裕を肯定しよう>

 とはいえ、現実はそうはいかず、特に国内では余裕のある生き方、無駄の多い生き方は歓迎される方向にはないように思う。
確かに、物資が乏しく生きていくことに余裕がないなら、冗長的な考え方が逆に命の危険を招く場合も考えられるだろう。
むしろ、人生においても無駄や余裕を省き、真剣に生きていくという生き方は、その時代の背景を前提に形作られたと考えている。

 しかし、今は違う。
私たちが無料で消費できるコンテンツだけでも無限に存在し、過去と同レベルの生活水準を考えると、日々そのコストは下がっている。
そんな中で、無駄なく、余裕なく生きるというのは逆に困難だ。

 生きる上で、冗長的なものを排除する必要がなくなった社会で、あえてそれを守る理由はなんだろうか。
その理由がないのに、無駄や余裕を排除しようとすれば、生きるのが苦しくなり、突然の出来事に対応できなくなるだけという結果に終わる。

 時代は変わった。
ところが、今でも様々な教育や会社の研修では、勉強や仕事だけでなく、自身の生き方においても冗長的な考え方を勧めない考え方が幅をきかしている。
なぜ、無駄や余裕を排除するのか。
その理由を考えてみよう。
自身の人生において、その問いに明確なものがないのなら、答えは簡単だ。

冗長的な部分があっていいじゃないか

 まずは、あなたの無駄と余裕を肯定するところから、始めたらどうだろう。
自信を守る上で、冗長的な部分はそれだけで価値をもっているのだから。

<冗長性のまったくない時間は例外だ>

 とはいえ、そうすることで他人に迷惑をかけたり、届かなければいけない場所まで期間内にたどり着くことができない場合もあるかもしれない。
それはつまり、冗長的な考え方を拒むべき理由があるということだ。
そうであるなら、自身を律し、余裕どころか背伸びをしなければいけない場面もでてくるだろう。
自身の許容量を超えて壊れることがないようには十分に注意しつつ、その疾走している時間を楽しんでいこう。

 そして忘れないでほしい。
その時間は普通の状態ではなく、リスクの高い期間となっていることを。
そして、相手に理由がないのに、そんな例外を押し付けないように気をつけよう。

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