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自分がどうあるのが理想的なのか

「現実に多くを求めても無駄だと思います。
現実はそう変わりません。
何を変えることが私一人にできるでしょう。
それは知れていると思います。
私というものは儚いものです。
私とはこれまでに私を育んできた環境の影響にすぎません。
その残り滓が私のようなものです。
それが錯覚としての私です。
なぜなら、
他の誰かも同じ環境にいれば、
私と全く同じ人間が出来上がるはずです。
だから私というものにはさほどの意味もないかも知れません。
無私とはどんなものでしょう。
心を砕く思いを捨てて、
無私を貫くのが安楽の道かもしれません。」
「それはそれでいいのでしょうが、
無私の姿勢とはどんなものでしょうか?」
「そうですね。
無駄な自分を減らす事で楽さが出てくるかもしれません。
だから、私は、
自分を滅ぼすことを善事だとは思っていません。
しかしながら、私事を消すことは些細で雑多な世界を滅ぼして、
平安な心を手に入れる方法かもしれません。」
「それで何の得があるのでしょうか?
自分を殺して立場をなくすことが平安の道でしょうか?
それは楽になれる道でしょうか?
しかし、楽になるためには修練や訓練が必要だと思います。
そこから逃げる姿勢があるならば、
それは安楽な道が来るはずのない姿勢です。
それは捨てなければなりません。」
「そもそも私は無私な私ではあります。
私は私を多大だとは考えておりません。
しかし、私という偏見とプライドと野卑に構えた姿勢が染み付いています。
それを洗いざらい流してしまって、
無私の私を形つくることが楽に人生を送る秘訣かも知れないと気づいて、
それで自分を滅せようと考える指向はなきにしもあらずです。
その先に幸福があるかも知れません。
多大な幸福を求めるよりも、
小福で満足できる自分を持つ事が幸せへの道かも知れません。
自分は人生に多くを求めるだけなのかも知れません。
しかし、世界にその見返りを与えることはできない。
となるとやはり苦しみから逃れることはできないのかと、
原理的には納得できるのです。
つまり世界に求めることを減らすことで自身の幸福を増やそうとしているのです。
多くを求めることは得られなかったことへの不満と残念感から逃れられないことを意味します。
だから、それを捨てて、無私で小欲を望むべきかもしれません。
小さいことにこだわり、大きなことを求めない。
大きな意味や意義は結果として得られるもののみ、得られればそれでいい。
そんな姿勢で生きて生きたいです。」
「まるでこれまではその逆をやってきたかのように話しますね。
それは辛かったですかね。
どれだけ求める気持ちがあってもそれで得られるほどにこの世は便利にできていないと思います。
だから功利にすがり、自分はこうしてきた、
だけど、なんて肩を落とすのをやめて、
自分が望むものを減らすことは力みを抜くことにつながるかもしれませんね。」
「結構ですね。
私は私を捨てていきます。
無私という言葉は意外と流行しているようです。
私もそれに倣います。」
「そうですか。
それは結構なことですね。
心を捨てて、自分を捨て去る。
残ったものだけがあればいいではないですか。
それで生きていけない、
なんてことはあるのでしょうか。」
「そうですね。
全て捨て去った後に残るものだけが価値があるのかも知れません。
だからそうしてみましょう。」
「まあ断捨離ですよね。
心に積もったものを要るものと要らないものに分けて、要るもの以外は捨ててしまいましょう。
要るものがあるならまた拾い直せばいいのです。 また手放してしまったなら買い直せばいいのです。
暇な時間を持て余すよりもずっと有意義でしょう。」
「まるで僧侶のようだ。」
「それです。それ。
私はそうなりたいのではあるのです。
しかし、そうなり方が分からない。
そのために色々と無駄な苦しみを抱えてきたのかも知れない。
だから抱えるものを減らして、
それで安楽に生きていきたい。
それだけです。」

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