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「主体性」と「教えない」「怒らない」を考える

 自己紹介にも書きましたが、私がバレーボールについて考察したり発信するのは、自分の人生の中で最も影響を与えた要素の一つであるバレーボールがさらに発展し、一人でも多くの人々が喜びをシェアできるようになってもらいたいという願いがあるからです。
 今日に至るまで、コーチとしてのスキルアップや、チーム強化のスキル、現代バレーの見方や考え方の考察など、いろんなインプットやアウトプットをしてきたわけですが、近年の主張となるテーマは、

日本のバレーボールの向上と発展のカギは「アンダーカテゴリ改革」にあり

ということです。 

 日本のバレーボールの、小中高校生年代にわたる「アンダーカテゴリ」の課題を考えるとき、
・コーチング(指導者、指導方法、指導内容)
・環境(少年団、部活動、クラブチームなど)
・育成のあり方
・普及や代表強化につながる組織やシステムの在り方
・価値観(勝利至上主義の問題、モラルの問題など)
・教育の問題(特に学校教育)

など
 考えるべき課題は山積なわけですが、近年議論が盛んに行われているのは、バレーボールに特化した課題ではない、スポーツ全般他競技にも通じる内容が多くなっているような気がします。
 「楽しむこと」
 「思考力や判断力の育成」
 「主体性」
 「勝利至上主義が生み出した悪しき指導文化からの脱却」
 「アンガーマネジメント」
 「成長思考の育成」

 こういった、人間としての資質の習得、人としての成長に視点が及んでいます。スポーツとは何か?何のための営みなのか?原点に立ち返る作業とも言えるかもしれません。

 平成という時代が終わり、令和にという新しい時代に変わるタイミングと時を同じくして、日本の学校教育の節目・変わり目となっているのをご存じでしょうか?
 平成期は、ゆとり、生きる力、能動的に学ぶ力、読解力などの向上、心の豊かさなどが大きなテーマとなり、単なる知識注入の詰め込み式学びからの脱却を図る動きがクローズアップされてきました。

 そして時代は令和になった今、日本の学校教育における大きなテーマとなっているのが、

「主体的・対話的で深い学び」 なるものです。

 世界は、日本は、年を追うごとに変化が目まぐるしいものになっています。グローバル化、情報化、環境問題、人口問題、そして近年の感染症や自然災害などの突発的な問題など・・・そしてその変化には、これまで経験のしたことのない課題もつきまといます。
 そういった中にあって、過去の事例から知識や方法を取り出すだけでは時代に対応できなくなってきています。
 そのような時代を生き抜くため、持続可能な社会、世界を作り上げていくために、求められてくるのが、カオスの中からもともとある正解を取り出す力よりも、

カオスの中からまずは先見的に課題を発見する能力
そして
その課題に対して新たなものを生み出すクリエイティブさ

1から10にすること以上に、0(ゼロ)から1を生み出す力

などが求められる力になってきたわけです。

 その実現のためには、従来の与えられた受動的な学びではなく、自ら考え、行動を起こし、結果から新たな成果と学び、新たな価値にチャレンジする探究心みたいなものが求められるようになってきたわけです。

言いたいこと(結論)

・時代の移り変わりにともなう急速な社会の変化と人々の価値観の変化から生まれてきたニーズ「教育と主体性」

・社会のニーズは、スポーツの指導に対しても例外なく要求されてきた

・従来、黙認されてきたスポーツ指導法が通じなくなり、困惑する大人の現状と現状打破のハウツーとしてを求める大人たち

・「教えないスキル」、「怒ってはいけない」は、教えない、怒らないを目的にする以上に、それらに内包された価値観を学んでいくことが重要

最近話題となっている「教えない」・「怒らない」から見えるものとは?

 サッカー佐伯夕利子さんの「教えない」スキル
 バレーボール益子直美さんの「怒ってはいけない」大会

が、最近では話題になっています。

 ・スポーツにおける「アンダーカテゴリー」の存在意義
 ・子供たちに対する指導や大人のアプローチの在り方
 ・子供たちにスポーツで何を身につけさせたいのか
 ・子供たちの視点に立って


こういった点でともに通ずるものがあります。

 サッカーの久保建英選手が昨年在籍したことでも知られるスペインリーグのビジャレアル。このビジャレアルスタッフで現在Jリーグ常勤理事を務める佐伯夕利子さん。

 マニュアル、ゴール設定、決まり事・・・
 子供たちに規則やルールを与えた時点で、そこに制限が設定されてしまうことにつながりかねない。そこから、子供たちの可能性に制限をかけ将来性を狭めることにもなりかねない。
 そういった言葉を耳にすると、やはり「指導」という概念では子供の無限の可能性を伸ばしきれないのだと感じます。
「指導」よりも「コーチング」。
コーチングの1つの小さな仕掛けとして、ティーチングやデモンストレーションがあってもいいですが、全体としては「指導」ではなく「コーチング」。つまりは主体は、選手、子供たち、プレーしている本人であることを忘れてはいけないのです。
 そして、それは指導方法やメソッドという言葉がともするとハウツー論になりがちです。

苦手を指摘しない
彼らから苦手を質問される相談される、苦手を聞き出す
注意するときは、前後に受容、承認、良さをほめながらの「サンドイッチ話法」
テーブルは丸テーブルで互いを引き出し合う
子供たちに「どう思う?」の問いの言葉で返す
選手同士、子供たち同士で教え合う

子供たちに何をさせるか?何を与えるか?ということではなく、大人であるコーチ側がどのようにコミュニケーションを構築するかが非常に大事にしていることになります。
 そして、そういった大人であるコーチのコミュニケーションや子供へのアプローチのスキルを高めるために、誰よりもコーチたち自身に厳しく、常に学ぶ姿勢が求められてくるわけですね。コーチ全員にビデオカメラで撮影し、指導法は客観視する。事後は互いにディスカッションをし、厳しいことでも言い合える信頼関係を構築しておく。

 佐伯さんの著書のタイトルにもなっている「教えない」。
これは、単なる放任でもなければ、見守りでもなく。主体は子供たちに置くアプローチや環境を大人が実行すべく、大人たちであるコーチたちが徹底的に研修や学びを厳しく追究している中での、一つの子供への導き方なのではないでしょうか?

 バレーボール元日本代表選手の益子直美さんも、スポーツと子供たち、子供たちのスポーツにおける可能性を潰したくないないという強い決意と信念で、活動と発信を展開されています。
 「怒ってはいけない」というフレーズは、何ともインパクトがあり、何とも親近感がわく言葉に聞こえますが、これは指導者への「disり」目的のものではありません。

「教えない」、「怒ってはいけない」・・・

 いずれも、言葉尻だけの額面通りの受け止めではいけないのだろうと思います。佐伯さんの提言、益子さんの提言ともに、日本のスポーツのアンダーカテゴリの現場の実態に対して、よりよい変革につながるためのものだと解釈しています。
 手法やメソッド、アプローチというものは多様にあるものではありますが、少なくとも「子供とスポーツ」というテーマにおいては、

目先のことだけに追われず時間をじっくりかけて
自らの試行錯誤の体験から自発的に学ぶ
失敗をおそれる、失敗しようとしないことが失敗
興味や探求心を奪わず育ていく
大人の思い通りにコントロールしない


こういったスポーツにおける子供たちへのアプローチや環境、価値観や認識が日本ではまだまだ足りないということに、佐伯さん・益子さんは警鐘を鳴らしています。

「主体性」「主体的」を考える

教育が・・・日本の教育が・・・日本のスポーツの足かせになっている。
そう語る人がたくさんいます。私もそう思っています。
しかし、「教育とは何か?」という問いに明確に語ることができる人がどの程度の割合いるでしょうか?(私も自信がないです)。そして、今、日本で教育がどんな動きをしているか語れる人はどの程度の割合いるでしょうか?

「主体的・対話的で深い学び」

 「主体性」なるものが、いまの教育においてもスポーツの育成やアンダーカテゴリにおける指導においても、求められているテーマであるわけですが、では、この「主体性」はなぜ今日必要と言われてきたのか?

内発的な動機にもとづく探究
他者の声に依存することなく自分の意志がある
自分で判断、自分で決断して行動し、結果に自ら責任を持つ
大人は、観察ー仮説ー実行ー検証のプロセスを経ながら子供たちの試行錯誤に介入しない
失敗を恐れないマインドを育てる、チャレンジ精神


 当たり前ですが、必要となってきたから、または「主体性」のなさによって表面化してきた問題があるから、ということになるのでしょうか。
 さらに一つ疑問に思えてくるのが、「主体性」というようなものは、これまでずっと日本人に足りなかった資質だったのか。昔の人は主体性ではなかったのか?ということです。
 しかし、考えてみれば、日本人だろうがいつの時代にあっても、その道のフロンティアや革命児はいたわけです。過去において世界的な偉業を残した人や世界にインパクトを与えるような活躍するインフルエンサーはいたわけです。そんな彼らはまさに「主体性」そのものによる行動や努力があったはずです。

 教育もまた、時代の変化、社会の情勢とリンクしています。

 今、話題となっているのは、受動的な学び、学習者の受け身的指示待ち的な姿勢への批判からくるものが多いと思います。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、学びの空間に参加する者どうしが意思疎通を図り、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創る中で、気づきや刺激をもとに自らに問題を発見し、解を見いだしていく能動的な学びへの転換が必要である。

 これは、昔から消極的だったとか受動的だったということではなく、時代や社会の変化や変遷の中で、表出してきた一側面なのではないでしょうか?
 経済的な豊かさ、それに伴う物質的な豊かさ。情報化にともなう情報へのアクセスのしやすさと情報受信過多。その中で発生する突発的な問題や見通しにくい混沌とした問題による不安とそこから回避したいという安定志向。
 多様性の時代と生き方の多様性。終身雇用制度に代表される、昭和の時代に隔離された日本型ライフスタイルももはや崩れ、「いい学校・いい就職・安定した生活」というモデルにも価値観に変化がみられています。一つの道を早期から修錬し道を極めるまで粘り強く立ち向かうチャレンジがある一方で、どんどん新しい分野や新しい環境、新しい自分の可能性を探し、開発し、見つけていこうとする、もう一つのチャレンジ。

「主体性」への要求は、時代の変化とともに強まっています。

やっぱり「大人」の問題、「大人」の事情

 そもそもスポーツは大人の戯言として発展してきた部分もあったため、いろいろなことが子どもには適していない、フィットしないという問題があるのではないかと考えています。
 日本のスポーツ、アンダーカテゴリといわれる、子供たちを取り巻くスポーツの環境は、なんでも大人のダウンサイジングや大人のマイクロコズム(縮図化)が進んできたのではないでしょうか?
 計画的に育成を…などということが大人の勝手な都合や事情や思惑によって、子どもは大人の縮小版と考えている現れとなってきました。
 子供たちの世界には、大人では分かりきれない世界観がある。子供たちの世界間には大人が介入してはいけないものがあるはずです。

 私は、近年は、スポーツのコーチをしている大人や保護者の方に時々たずねています。

「なぜそんなに勝ちたいのですか?」
「なぜそんなに勝たせたいのですか?」
「なぜそんなに負けたくないのですか?」
「なぜそんなに子供の負けを悔しがるのですか?」


いろんなお考えが返ってきます。
 子供の将来のため?
 子供の教育のため?
 子供の成長のため?
 子供の進路のため?
 保護者のニーズ、期待に応えるため?
 指導者としての自分が認められたいため?
いろいろあるかと思いますが、まずは、

 ・正直に自己へのクリティカルシンキングをともった自問自答すること
 ・自問自答した結果が、社会的に支持されるものかを考えること
 ・言動が一致しているかということ


これらを時々振り返って点検してみることが大事だと思います。
「教育だ」、「成長だ」と言いながら、いつも頭ごなしに指示をし、コントロールしたり従属させているようでは、言っていることと結果が違います。

スポーツ(バレーボール)でこれからの時代求められているもの

 私たち大人が、バレーボールをしている子供たちにどのように向き合い、アプローチすべきか。それは「教えない」、「怒らない」だけでは説明がつきません。もちろん佐伯さんも益子さんも、それらの言葉の裏には膨大な理念や信念や実践があるわけです。

「教育」などというものは、誰か一人の努力で実現できるほど薄っぺらいものではない。

「主体性を育てる」などというものは、短期間で成果を出す特効薬や攻略法があるわけではない。

「教えない」、「怒らない」・・・

これらは、教えなければうまくいくとか、怒らなければうまくいく、などというものではなく、教えなるとか、怒るとか、そんなもんよりも、ずっとずっと大事な経験やプロセスがあるということメッセージをはらんでいるのだと思います。

 考えることも大事、でも直感やインスピレーションも大事
 のびのびやらせるのも大事、でも妥協しないのも大事
 教えすぎず主体的に考えるのも大事、でもヒントを与え時には間違いを正すことも大事
 
 子供と接する大人の思考に、ゴールはないということになりますね。


(2021年)