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コロナ禍で見つめたい価値

大人の自己実現の手段にされたアンダーカテゴリ・スポーツ

「勝利至上主義」という言葉が、日本でも批判的に見られるようになってもう何年もたちます。

 これは、日本のスポーツにおける、アンダーカテゴリ(小学生や中学生)の指導の在り方や環境が、あまりにも過剰すぎて、オーバーワークによる疲弊だけではなく、暴言や暴力をともなう場面も根絶できない状況を問題視しているものでもあります。

 悲しいことに、特に日本のバレーボール界では根深いものがあると思っています。

しかし、これは日本だけに見られる問題ではないようです。
 世界中で、子供のスポーツとその競争において、親やコーチなどの「大人」の欲求が必要以上に介入し、その要求が過剰に、そして過激になる傾向は洋の東西を問わず起こっているようです。

 このことについて、私はこれまでアメリカ、ブラジル、ポーランドのバレーボールコーチ、さらには日本国内にいる外国人バレーボールコーチに対して訊ねたことがあります。
 やはり、親やコーチたち大人が、自分のチームや選手を勝たせんがために、利己的な衝動に駆られたり、なりふりかまわない言動に突き進んでしまうことを知っているようです。

 そして、このことに対して組織的な対応をしていることがわかりました。
例えば、アソシエーション(協会や連盟)が、長期スパンに立った、アンダーカテゴリーの育成システムやプログラムを策定し、それと同時に親やコーチなど、選手である子供たちを取り巻く環境の在り方について、しっかり啓蒙や教育を行っていくことも位置付けられプログラムに組み込まれているようです。
 バレーボール以外の競技では、世界ではもはや当たり前にもなっているようです。

コーチング ⇒ ティーチング ⇒ 「指導」 ⇒ 指摘 ⇒ 
   注意 ⇒ 非難 ⇒ 圧迫 ⇒ 脅迫 ⇒ 懲罰 ⇒ 攻撃・・・

 動画で言われている、子供のスポーツを取り巻く大人たちの「フーリガン化」は、洋の東西を問わず、意識的にコントロールやトレーニングをしていないとどんどん悪化していくようです。
 個人的には「指導」という言葉が与えるイメージが、コーチングになかなか行き着かない要因にも思います。単なる言葉遊びになってしまうかもですが、主体が子ども(選手)から離れていきます。いわゆるプレーヤーズファーストではない状態に進んでいきます。
 そして、教えているつもりが、子どもの(選手)の変容を待てないため、一時一事に対して指摘をするようになる。そこに伝えたいことの有用性がまったく伝わらず、理解されず、そこにさらにいら立ちや焦りが加わる。そして最後は子ども(選手)に責任転嫁され、その感情のエネルギーが暴走してしまう。
 
「アンガーマネジメント」
という言葉がここ数年の間に浸透してきました。

・アンガーマネジメントの必要性を認識する

・アンガーマネジメントできていない自分を認める

・怒りを抑止・抑制しようと意識する

・怒りに自分が向かわない別の意識をもつようにする

・怒りがおこらない価値観をもった自己への変容

こういった過程をたどってようやく、アンガーマネジメントに近づくのだと思います。

「言葉」(言語)は大事なのです。

それは、自分の思考や感情を構築しコントロールすることになります。
そして、相手に伝えるツールとして避けては通れないものです。
アンガーマネジメントが制御不能になるということは、言語能力の欠如や崩壊によるものとも言えるかも知れません。

 特に日本のバレーボールの風土は改善が遅れがちになっていると感じています。それはバレーボールがもつ競技のちょっとした特性にも関係があると考えています。

・コーチが口を挟みやすい環境にある。ゲームではサーブとサーブの間にインターバルがある。

・コーチ(ベンチ)がコートに近く、常に選手とコンタクトがとれる

・スペース(フィールド)が限定的

・日本の指導アプローチが「型にはめる」側面が強く、コントロール(強制)する傾向が強い

など
こういった他種目にはない環境因子が、なかなか改善が進みにくい要因に関係しているのではないでしょうか?

 私は、怒らない、体罰の撲滅、暴言の駆逐・・・の実現に近づくために、幾つかの必要な作業やプロセスがあると思っています。

 今は、「アンガーマネジメントは必要だ」、「体罰暴言はあってはならない」といった原理原則の主張や啓蒙がなされているのにとどまっていて、本当は自分を変えたいのになかなか変えられない大人たちに、ある意味寄り添っていない気がしています。

 みんな知識や情報としては、もはや知っているのです。

にもかかわらず、なかなか改善できない。そしていつの間にか独善的な大義を作り出して、変えられない自分を肯定してしまう。
 ですから、一方的なアナウンスだけではなく、こういった風土を変えるために必要な作業やプロセスが求められています。

①旧来のそれらは効果がないというより、一時的な即効性のあるものとして認めつつ、それが与える副作用や後遺症の恐ろしさを知る。

➁心理的メカニズムや要因の分析と理解

③自分自身の「エゴ」との自問自答と受容(理解する)

④失敗からの改善へ至った経験者の声に耳を傾ける

⑤仲間を増やす

 スクラップ&ビルドをするにしても、全否定から始めるよりも、過去のそれぞれの失敗に一定の理解や部分的な効能を認めつつ、しかしそれが時代の変容と人々の価値観の変化(進歩)にコミットしていないことによって様々な弊害が生まれやすいことを認めていかねばなりません。
 そして、所属欲求なのか、承認欲求なのか、利己的な自己実現欲求なのか、利他的な自己実現欲求なのか、それとも成長欲求なのか・・・自分に正直に今の「エゴ」を分析し理解する。そこに良し悪しはなく、ただ単に自分の現在位置を知る。そうすることが、アンガーマネジメントの一助になると思います。
 もう一つ言及したいのは、成功者や成功談しか光が当たっていないことです。変わりたいのに変えられない人にとって必要な情報は、その重要性やあり方ではなく、それらは十分知っているがゆえに、どのようにして生まれ変わったのか、どのようにして克服したのか・・・そのようなプロセスこそが必要な情報だと考えます。ですから、過去の過ちを自分で認めるだけではなく、克服した人、また克服しようとしている人のリアルな声や思いにみんなで耳を傾けることも大事だと考えます。

当たり前にはしない、原点とすべきことを問う

このコロナ禍にあって、スポーツ界は様々な制限と停滞に直面しました。

 バレーボールも例外ではありません。練習や活動は自粛期間が長期化し、長いブランクが生じました。大会やイベント事業もことごとく中止となり、長い期間かけて目標としてきたものが奪われ失意を抱く人も大勢いたことと思います。中にはバレーボールによって進路やキャリアが大きな影響を与える人もいて、まだまだ気持ちの整理がつかない人も大勢いるのだと思います。

 大会は無いよりもちろんあった方がいいし、リモート(無観客)よりは観客が直に観れる方が絶対いい。保護者だって試合観戦を直にしたいのも当然です。

 ただ私は、「あれができない」、「これが無くなった」と、失ったものばかりを見て悲観的に終始するのは少々残念に思うのです。

 ましてや、子供たちを見守るはずの大人たちが、率先して、大会をつくれだの、全国大会をなくすな・・・などと必死になっているのは、私は賛同することができません。

 バレーボールというものに対して、いろんな人にいろんな楽しみ方、目的、動機があるのだと思います。しかし同時に、本来スポーツの中のバレーボールとか社会の中のバレーボールというものを考えた時に、どんな人にも通じる普遍的な価値みたいなものに光が当たっていないような気がするのです。

 今まで当たり前だったものが、当たり前ではなくなった時、そこには不自由さが生まれると同時に、それまでの当たり前に何らかの価値や意味が見えてくるはずです。そして、もっと大事だと思うのが、当たり前ではない状況下にできることこそ、見失ってはいけない価値があるのではないかということです。

 大会が無くなったら、バレーボールをする意味や価値がないのでしょうか?
 全国大会のために多くのものを投げうって犠牲にしてきた人にとっては大変な損失なのかもしれません。しかし、それでもバレーボールを人生の中心にやってきたのなら、バレーボールの魅力や面白さにもう一度目を向けてほしいのです。

練習ができないのなら、バレーボールを学問として探究していもいいし、身体を動かさずとも映像や座学でトレーニングすることだってできます。語りや発信、ディスカッションだって多くの価値を生み出します。

 オンラインでミーティングもできますし、映像を観ながら語り合うこともできます。

 「バレーボール好き」

 「バレーボールの楽しさ」、「バレーボールの醍醐味」

という原点をみんなでもう一度見つめてはどうでしょうか?
そして、それらを大いに語り合ってみてはどうでしょうか?

 勝たねばならない、負けるわけにはいかない、結果を出さねばならない
いろんなプレッシャーや大義名分と戦い続けてきた中で、
それまで支えてきた目標やモチベーションを失うことは、
何よりも大変な損失です。
でも、バレーボールを追いかけてきた自負があるからこそ、
バレーボールへの探求はやめるべきではないと思うし、
それぞれが、バレーボールの素晴らしさを
別の形で発信していくことこそが、
コロナ禍の中で、私たちができること。
できないこと探しではなく、できること探しを
みんなでやっていきたいものです。

(2020年)