「ベーシック」と「スタンダード」
「基本」(ベーシック)というのは、どの選手にも、どのカテゴリにおいても、共有されるべき普遍的に近いものであると思います。
「標準」(スタンダード)というのは、対象範囲の中での、一般的でごく普通であること。または普通になされているもの、基準。
バレーボールにおける「当たり前」を考えた時、「ベーシック」と「スタンダード」との意味合いが、ややごちゃ混ぜになっていて、議論が不透明になったり、「基本」の浸透や、「標準」化を進めようとする際の妨げになっているように思える時があります。
例えば、なぜ春高バレーで、リードブロックやそれに伴う組織的戦術的思考ができないのか?または、「はやい低い」によるボールのこすり合いの応酬から抜け出せないか?なぜサーブの重要性やサーブ&ブロック戦術が浸透していかないのか?
これは、まず最初に焦点を向けるとしたら、「基本」をどのように認識するかが最初だと思うのです。そこへの認識が曖昧であるからこそ、独自理論や独自の戦術がでてくるのだと思います。
・スパイクやブロックは、全力で跳べて最高打点を求めること
・スパイクは、全力で打ち切れるかどうか
・オーバーハンドでのセットは、セットする瞬間までどこに上がるかわからないこと
・個々のスキルにおいては、そのプレーを行うための「準備」がなされるか、そのための間が確保できるか
・シンプルに守り、多彩に攻めることができるように、サーブやブロック、ブロックとフロアディフェンスを構築できるか。
・ファーストタッチの返球は、次のプレーヤーの思考や動作の十分な余地を与えられるか
・戦術やシステムというのは、状況や相手に応じて、対応や変化がなされなければならい。
こういったものがバレーボールにおける「基本」なんじゃないのかな?と思います。
さらに、個々のスキルにおける「基本」という所に焦点を絞っていけば、
そこでは、「型ハメ」に終始するんではなくて、
動作原理や運動原理を共有していくことが必要なのだと思います。
いい例が、セット(トス)の際、ネットに対して垂直になってセット方向に正対する方法と「サイドセット」という方法との議論です。
これを「基本」という側面で考えてしまうと、何かが基本じゃなくなる・・・それはおかしい。となっていくわけです。そうではなく、「標準」と置き換え、いずれにしても、オーバーハンドにおける動作原理や運動原理についてを「基本」と考えたらいいのではないでしょうか?
ですから、近年議論されているところの、
ファーストテンポのスパイクの話、
スイングブロックの話、
リードブロックの話、
サイドセットの話、
バックアタック積極的導入の話、
トータルディフェンスの話、
・・・
などなどの議論は、「基本」に関するものか、「標準」に関するものか、ということを整理することは必要なんじゃないかな?と思ったりします。
そういったあたりが、高校生や中学生のカテゴリで独自の理論ができていったり、その思考から抜け出せないまま世界に溝を開けられたりという課題の糸口になるのではないかと考えたりします。
例えば、女子バレーに多く見られる「はやい低い攻撃」・・・世間では高速バレーとかスピード勝負と称されているようですが、これはある意味、日本の女子バレーで 「標準となっちゃっている」 ということであって、でもスパイクは全力でという部分においてでいうところの「基本」ではないということになるんじゃないかなと思います。
日本のバレーボールの「基本」の置き方
「基本」は、どのカテゴリであろうとどんな選手であろうとも、「バレーボール」というゲーム、プレー、各スキルにおいては外せないものである。
一方で、「標準」というのは、ある対象範囲において、一般的になされているものであるから、その内容は対象範囲において違う場合も十分あり得る。ということなのだろうと思います。
ですから、「基本」に反した「標準」というのは、やっぱり良くないのだろうと思います。
日本のバレーはまず、ここで躓いていることが多いわけです。
「はやい低い」、「ジブンタチノバレー」、「サイドセット悪」、「過剰なAパス要求」などなど。
これらは、「基本」のおさえが曖昧だからこそ起こり得たのではないでしょうか?
次の段階は、「基本」を理解し実践していても、現状にそぐわない「標準」がなされている問題がくると思います。でも実際はこの段階はあまり起こり得ないと思っていて、「基本」というものがしっかり整理・認識されさえすれば、あとは必要な状況、環境、情報によって、それにふさわしい戦術やシステムになっていくのではないかと仮定しています。
「スパイク戦術VSブロック戦術」の変遷・歴史というものがそれを象徴していると思います。
ですが、「あまり起こり得ない」と書きましたが、それが起こっているから、日本のバレーに多くの課題があると言えるのかもしれません。
「基本」というのは、大きく言えば普遍性に近いもの不易のようなものであって、「標準」というのは、時代や対象や実情によっては変わることもあり、「トレンド」「流行」という側面に近いもの。
そう考えて、従来の理論や常識、指導内容を考えていくと、その指導方法やチーム作りは変えざるを得ない所が出てくるように思います。
また、そう考えると今までは、「旧来型基本」とされてきたもの・・・多くは運動原理や動作原理ではない「型」だけでの「基本」という考えにおいては、それ以外は「基本じゃない」とされてきたと思いますが。
「基本」の洗い直し、さらには「基本」と「標準」という整理をすることで、それまでダメだとされてきたものも、許容できるプレーだったり、またはむしろ必要となるプレーだと再認識されるものだってでてくると思います。
エマージエンシー(緊急回避)的なものとか、ギャンブル的なものとか、アクセントをつけたり意表を突くものとか・・・そういったものについても、積極的な評価やチャレンジがよりしやすくなるんじゃないかと思います。
「基本」「標準」に対する共通理解を
さて最後に、日本のバレーが世界とどんどん溝をあけられていることに危機感をもちはじめている人が増えていると思います。それを何とかしようと、「世界で今やられているバレー」を明らかにし、それを日本で共有していこうという動きも進んでいます。
そういった中で、必ず出てくるリアクションが、そんな世界とかナショナルチームのスケールで言われても、下のカテゴリやいわゆる底辺という部分にはそぐわない・・・といった考えです。(自分は言うほど実践や導入は難しくはないと思っている)
ですから、伝える側も「基本」と「標準」への認識は共有されるべきであると同時に、受け手側にも「基本」と「標準」というものを認識してもらうことはとても大事だと思います。
アンダーカテゴリは基本の習得に時間をかける
春高バレーに出るチームや、小中学校で全国大会に出るようなチームは、有能な選手がそろっていて、いろんな戦術を実践できるでしょうが、その他大部分のチームは、コート上に体格もそろっていない、スキルレベルも不揃い、人数を揃えるので精一杯ななか、バレーボールのゲームにのぞまなければならないのだと思います。
ですから、そういった大部分のひとたちは、まずは「基本」。これは当たり前ですよね。次に世界に通用できる「標準化」の作業になっていくわけですが、これはあれもこれも欲張り過ぎず、それこそカテゴリやレベルの実情に応じて、最低限要求しておきたいこと、最低限クリアしておきたいことなどを検討、整理しておくことも大事なんじゃないかな?と考えています。
小学生でやり切れないことを中学生で、中学生でやり切れないこと高校生で・・・・そうしていく先の日本の代表が、「基本はもちろん完璧+世界の標準装備+アルファ」でもって、メダルを獲る日が来てほしい・・・・ということを議論すべきじゃないかと思っています。
(2015年)