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「成長の階段」一つ上がることに軽重はないと思う

「勝ったら選手のおかげ負けたら指導者の責任」への違和感

 毎年のことながら、小中学生スポーツで俗にいう「引退」という言葉がつきまとう大会が終わる時期になると、全国津々浦々、悲喜こもごものいろんな大会の模様や結果報告が寄せられています。
勝利の喜び
敗戦のショック
感動のドラマ
指導者の反省の弁・・・。
いろんな人たちのいろんな思いが渦巻いているのを目にし、選手も指導者も、ご家族も、みなさん本当にご苦労されながら必死に頑張っているのだなと思います。

 何かの大会でチャンピオン・優勝となり頂点に立つというのは、1チームしかないわけですから、その栄冠を得るというのは、本当に素晴らしいことです。数々の試合を勝ち抜き全国大会に出場することや、全国上位の実績を残すというのは、並大抵の努力や苦労では成し得ません。だから当事者の湧き上がる興奮やこみあげてくる感動は、ものすごいものなんだろうと思います。「報われた感」が半端ないのだと思います。周囲もたくさんの賛辞を送ってくれます。だから、余計に達成感や高揚感が加わるのだと思います。
 私も、ちょっとした成功体験や大きな成果を得た時代もありました。その時の高揚感はやはり大きいものでした。でも毎年毎年周囲の称賛や羨望のまなざしを得るような結果を残し続けているわけではありません。ですが、全国の中にはたまに「常勝」と称されるようなチームや指導者がいるのですからすごいもんだと思います。

 「勝者には、賛辞と声援を」

 「敗れた側には、労いと敬意を」

 「勝者も敗者も、それぞれが学びと成長を」

 これ以上の価値もこれ以下の価値もないと思っています。
 スポーツで勝負をする以上、必ず「勝者」と「敗者」が存在することになります。
 勝つ喜びは、とても爽快でこれまでの苦労が報われた成就感や達成感があります。欲しかった勝利を得た時の、興奮や感動は、一生忘れられないくらいの強烈なインパクトがあるものです。
 一方、志半ばで、思っていたパフォーマンスを発揮できなかったり、目標に向かってどこにも負けないくらいの努力と苦労があっても目標達成に至らないなど、思うような結果を得られず敗退した時の、「悔しさ」、「寂しさ」、「悲しさ」、「申し訳なさ」も、普段では持ち合わせない、大きな感情となるものです。正直、「その時は」辛いと思うことも多いです。

「勝ったら選手のおかげ、負けたら指導者の責任」

 ブログやSNSなどインターネットで思いを発信しやすくなった今、バレーボールでも小中高校生バレーの大会を終えた指導者が、こんな言葉を引用して振り返っているのを目にします。正直、近年は違和感を覚えます。
 プレーヤーズファーストに無意識に立っていないです。主語が「I」つまり指導者自身にあります。
 この言葉は、プロスポーツのコーチが発したものです。
 小中高校生を相手に指導している大人がこの言葉を用いているとき、その向こう側にあるいろんな心情を察してしまいます。
 
 選手以上に自分が勝利が欲しかったのは指導者自身である。
 自分(指導者)のための選手
 責任とは何か?どうやって責任がとれるのか?とっているのか?
 結果を出せなかったことへの批判回避

自分自身も正直なところ、かつてはこういった心理がはたらいていました。
小中高校生を相手に指導をしていて、責任といっても、子供たちにとっては一生に一度の機会でも、指導者には「また来年」が用意されている。そんな現実を前に、勝ったら選手のおかげ負けたら指導者の責任などとは、自分は言いたくないなと思います。

グッド・ジョブ
ナイス・トライ
共に学んで次につなげよう
楽しかったよ(勝っても負けても)
勉強になった


素直にそう言えるものにしていきたいです。  

勝手も負けてもスポーツは「みんなのもの」

 バレーボールもそうですが、スポーツはそもそも、「人生を豊かにするため」にあるもののはずです。
 その「豊かさ」は、非常に多様な価値観と、幅のある解釈が存在しています。健康づくりや体力づくり、親睦やレクリエーション、スキルアップへの挑戦、アスリート人生としての競技生活・・・など、すべての人を何か一つの価値観に収束させることなどあり得ません。
 しかしながら、「人の人生を豊かにするため」という根幹は変わらないと思うのです。ところが実際私たちの身の回りで起こっていることは、本当にスポーツとして成立しているのでしょうか?

「勝たなきゃ意味がない」と言う人もいます。
「2位以下はどれも同じ」と言う人もいます。
「2位じゃダメなんですか」と言う人もいます。
「勝たなくていいから育成する」と言う人もいます。
「勝敗を言う前に楽しみたい」と言う人もいます。

 どれが良くて、どれが悪いというものではなく、やっている競技者本人が、自分なりの価値観を持って実践することは、他人から否定されるものでも強要されるものでもないと思います。
 しかし逆に、ある一面的な価値観を、他人に強要したり、強制したりするのは違うと思うのです。ですから、競技者が別の競技者に自分の価値観を押し付けたり、指導者が選手たちを強制的に縛り付けるのはどうなのかと思います。ですから、チームスポーツなどは特に気を付けなければいけませんよね。チームの理念や目標、活動の方向性が全員の合意のもとで行われないといけないはずです。
 ところが、例えば「教育」などというものを標榜したとたんに、そのようなスポーツの前提が崩れていくことが珍しくありません。「勝利や実績戦績を得る」というものを目指したとたんに、スポーツの理念が崩れているのも珍しくありません。
 「スポーツ」は、スポーツであって、そこに解釈の上下もなく「スポーツ」。スポーツをやっている以上、携わっている以上「スポーツ」なのであって、それがどんな活動の一部であれ、スポーツの前提は守られなければいけないと思うわけです。

それぞれ一人一人の中にあるものが「勝利」

 スポーツをやる以上は、小さな勝ちでもいいから勝利を目指し、勝利の喜びや興奮を味わいそれを生きる糧とし、次への挑戦やモチベーションを生み出していく。
 自分でチャレンジしようと思う「目標」は、他と比較するものではなく、自分が今、現状よりも少しでも成長できるように目標を設定する。

 この「目標設定→目標達成」のプロセス自体が、人を成長させます。

 しかし、人々は、その目標の中身や価値観に優劣や軽重をつけたがろうとします。ある人は自分の存在意義や正当性を主張するために、またある人は自分の有能性を主張するために。

価値観の違いは時として衝突を生むこともありますよね。
勝利至上主義をやっている側が、戦績としての結果が無い側に対する非難や、
その逆に育成重視の側が、勝利至上主義を標榜する側を非難したり。
私は、私が2つの立場に分かれた議論になっていたり、両者がまったく相容れない関係になっていること自体が問題なのではないかと思うのです。その多くは、地域やバレーボール界という広い世界を、どうデザインするかというビジョンによるものではなくて、己の正当性や存在価値を示すために行われているに過ぎないということを認識しなければいけないと思うのです。
 「勝たなくていいのか?」、「みんなに公平にチャンスを与え育てなくていいのか?」、私は、「どちらも目指すべき大事なもので必要だ」というのが私の考えです。
 ましてや、勝った者が、敗れていった者を見下したり、ばかにするようなことはあってはならない。敗れた者が、勝ったものを妬んでもいけない。
 「負けは監督の責任、勝ちは選手のおかげ」という言葉を使う人も多いけど、私はちょっとそれは違うと思う。なぜなら、選手たちは指導者のためにプレーしてるわけではない。指導者は、選手に何か報いや見返りを求めるものではないと思うからです。

自己満とは違う「自分の中の勝利」を見つける

スポーツをやる人々は、ある意味で「全員が勝者」になれるはずです。
むしろ、それがスポーツの基本理念のはずです。
見た目だけの戦績の勝敗ではなく、関わっている人の心の中にある「勝利」。つまり成長や学び、生きる糧や教訓を得たものは、全員が勝者になれると思います。

いろんな敗戦の弁や謝罪、時には糾弾が繰り広げられています。
自分を蔑む必要なんてありません。自分で自分を傷つける必要もありません。
選手もコーチたちも、練習も試合も「自分にがっかりしない」ことです。
変に自分を遜らせて、周囲の批判を回避しようとする必要もありません。

人が階段の何段目にいるかが最重要課題なのではありません。

どんな人も、今のステージよりも、1段でも踏み上がれることが重要なんです。
予選落ちから、予選突破
10点獲れなかったものが、二けた獲れた
0勝から、1セット奪取
1勝から、2勝
準決勝敗退から、決勝進出
全国ベスト8から全国3位
いずれも、階段を一つ踏みあがったという点で同じではありませんか。

 人が何かに憧れをもち、何か目指したい姿があり、それを目指そうと動き出し、それを実現させる。実現させることができなくても、憧れや目標を持った時点の自分よりも、成長した自分を手に入れること。
「成長の階段」一つ上がれたことに、軽重などないのだと思います。

 マズローは、人間の欲求を5段階で説明しました。その最上位が「自己実現欲求」です。しかし、それだけだとスポーツで私利私欲に走ってしまう人間は残ります。

 私は、「成長欲求」がさらにその上位にあるべきではないかと思います。
 私はみなさんより、ずっと負け続けている自負があります。
勝てていないゆえに、退場すべきなら、いつでも退場することもできます。
でも、それではいけないんだろうと思います。


(2018年)