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「コーチzero」#01概論①~「バレーボールは分解しきれない」を認める

 現在、日本国内では、バレーボールの各種資格講習や研修会がある中、どうしてもハウツー(how to)論やトゥードゥー(to do)論に終始していて、しかもそれを持ち帰ってコピー実践してもほぼその通りにならないということを通して、日本のバレーボール指導の実際に疑問を感じてきた筆者が、それら現状の講習や研修以前の、バレーボールをとらえるうえで知っておいた方がいいと感じた内容を「コーチzero」と題し記事で取り上げてみます。

 フットボール(サッカー)素人な私でも、やはり2022FIFAワールドカップでは、連日観戦のとりこになってしまいました。と同時に、今回のワールドカップの期間ほどフットボールの情報に触れたことはないくらい、書籍やSNSからフットボールのいろんな分析を知ることができました。


フットボール(サッカー)を通して「バレーボールとは何か?」を問うてみる。

 フットボール(サッカー)を通して、今もなお「サッカーとは何か?」を問うような考察やディスカッションが大変活発になされていることに圧倒されました。
 そこで、改めて、私たちが日ごろ接しているバレーボールというスポーツをどのようにとらえ直す必要があるのか。

 「フットボール」というものを、複雑な事象や問題としてとらえ、個別の要素の着目する要素還元的に解決することへの限界が明らかにされつつあります。
 フィジカルだけ向上させても、テクニックだけを向上させても、知識や情報量だけを向上させても、個別の要素に分解してそれぞれを鍛錬するだけでは、フットボールやバレーボールのように複数の人間の主体的な営みによって生み出される「複雑なるもの」の成長には限界があるというのです。つまりは、構成要素とされるものを別々のものとして、要素還元的に個別にトレーニングや訓練していくことは非常に効率が悪いということが明らかになってきます。

 この「複雑なるもの」とは・・・フィジカル、テクニック、戦術(これも複雑)、データー、メンタル、コミュニケーション、組織やチームや土地の風土や文化・・・選手、コーチ、その他チームスタッフ、マネジメント・・・これらたくさんの構成要素が集まり、個性が違う人間が集まって協働的に営むものは、「システム」というとらえ方になっていきます。
 システムの中でも、一人一人に違うパーソナリティや価値観、思考判断を有する人間が集まって集団を形成し、いろんな相互作用を起こしながら成り立つ場合、その中にあるであろう個々の要素は、ただ並べたり揃えるといった線形的なものではなく、非線形的な「複雑なるもの」全体としての機能は説明しにくいわけです。一つ一つの要素が個別に単独で存在するのではなく、それらがすべてと関わり合って相互作用や影響し合う関係が存在しながら全体像を構成するわけです。しかもその作用は、人間という一人一人違う思考や判断をもった個性によってもたらされるので、時計の歯車のごとく限定的な働きをするものでもなければ機械的に動くものでもありません。

 現在、フットボール(サッカー)に関わる方々の間では、「フットボールとは何か?」の前提として、フットボールと言うのは、パズルのピース合わせやプラモデルの部品の付け加えのような発想でもなく、チェスや将棋のような規則性のある駒の動きによるボードゲームでもない、「システム思考」にという前提に立った考察がなされています。
 選手の起用や配置などのような、目に見えるような要素、個別の事象が単体として機械的な機能をしているのではなく、それらによって、何らかの調和や意思統一が生まれて全体としてのパフォーマンスが生まれ、さらには足し算以上の掛け算的なシナジー効果みたいなものとなる。さらにそれは言語化できるものを超えたパフォーマンスの発揮にもなり、相互作用が発揮されているもの全体として機能していく。これがフットボールを「複雑系」としてとらえ、育成や戦術を構成する前提となってきているようです。

 このようなフットボール(サッカー)の「今」から、バレーボールを考えた時、バレーボールという競技にも新しい視座と示唆をを得られるはずです。

 複雑系には、多様性や不確実性が特徴的であり、その特性を理解することは、複雑系をうまく制御することや利用する上で重要です。
 眼の前にある事象や問題を「複雑系」としてとらえ、その解決にあたる方法のアプローチとしては、

・問題を全体として考えること。問題を部分的な観点だけでとらえるのではなく、全体を俯瞰して考えることが重要である。
・問題を複雑系としてとらえること。問題は、複数の要素が相互作用して起こるものであることを理解すること。
・解決するために、問題を構成する要素を構造的に理解することが重要である。それらを分析し、その関係性の状態を注視することが必要である。また、問題を構成する要素を操作したり変数を設定することで、問題の解決に近づくことができる。

 などが挙げられます。このようなことを考えると、サッカーもバレーボールも、それぞれが「複雑系」ととらえるならば、それらのすべてを線形的に、人間が意図的にコントロールするのは難しいです。ボールの動きも人間の動きも、不規則であり不確実で予測しにくいです。こういった非線形的なものによるカオスをより制御・コントロールすることはできないか?試行錯誤が続いているわけです。
 その中で、チームがどのようにプレーしていくべきかというフレームワークや対戦相手を問わずチームで共有しておくべき考え方の必要性、構成要因である選手の特性を考慮することでチームの機能性を高める手法などが開発されてきています。
 これに対して、日本のバレーボール指導で多く見受けられるアプローチは、あたかも無数の鳥たちが群れを形成するために、一羽一羽に細かく言葉で指示を出し、全体の形成像も指導者の命令によって整えようとするのに等しいことをやっているわけです。

 サッカーなどの集団戦術と言われるようなものは、チームメイトの相互作用における共通の認識が用いられ、チームメイトによる相互作用は、スペースや空間をどのように分配して活用するかということで生み出されていきます。しかし、常に予想不確実な対戦相手がいて、目まぐるしく状況が変化するようなカオスな状況においては、フォーメーションという名のもとでの固定的な配置や、パターンとも言えるような限定的な動きの組み合わせだけではとらえきれないことになります。

 「バレーボール」とは、コート上の複数人がネットを介してオフェンスとディフェンスの攻防を繰り返すものです。その攻防には、パターンやフォーメーションはあれども、それだけに拘束された固定的なものであれば、相手から即座に対応・攻略されやすくなります。同時に、自チームは規定に拘束され、フレキシブルな対応を困難にします。ですから、コート上の選手が主体的に思考し判断して、即座の最適化をしていく営みを続けることが必要であり、カテゴリーや競技レベルが上がれば上がるほど、その要素が求められてきます。

バレーボールは、サッカーから学べることが多い

 サッカーの有識者の間でも 、フォーメーション(配置)の選択、選手選考 や選手の起用方法の観点で、ゲームを分析している論調を多く見受けられます。
 サッカーには明るくない私が考えるに、フォーメーションはゲームにおける戦い方の基準点であり、不確実なことが発生するカオスの連続であるゲームに、対戦するために必要な秩序をもたらす起点となるものになってきます。選手の位置や配置によって、ゲーム中のオフェンスやディフェンスの方法や姿・形、パフォーマンスが変わっていくのだと思います。当然、チームによっても個人によっても変わっていきます。
 現状の能力、強み、弱点、期待できるシナジー、相手の傾向・・・などすべてを反映し、人員の配置から空間の活用の仕組みが生まれてきます。そこから、サッカーで言えば、スペース、ポジショニング、ボールの位置、相手の位置、などで選手は自分たちの立ち位置を主体的な意思決定がなされていくのだと思います。
 サッカーにおけるディスカッションを目にしていると、従来の成功事例や固定観念に縛られ過ぎず、いかに様々あるそれぞれの戦術をどのように組み合わせることができるか。変化していくシステム、局面やシチュエーション、相手チームや選手個人の能力や特性、置かれている環境の中で、どんな状況でも賢く最適化していくプレーができる選手というものが、練習や実戦で求められてきているのだと思います。
 個人的には、フォーメーションや配置というのは、「対処」のためだけにとどまらず、そこから「発展」や「創造性」を導くためのものへにもなるのかなと感じています。

 サッカーやバスケットボール、バレーボールなどのうなスポーツ競技を「複雑系」としてとらえ「システム思考」に基づく概念、戦術や練習の試行錯誤は、あくまでもフットボール(サッカー)で蓄積されて生み出されてきた概念かもしれません。そこで言われているところの「戦術的ピリオダイゼーション」や「ポジショナルプレー」、「ゲームモデル」などと言われているものを、そのままバレーボールに移植できるものなのか、どのように機能するかどうかはまだ不確かです。
 しかし、バレーボールという「複雑系」を構造からとらえ直すという意味においては、サッカーでの分析や考察は、大いに活用できるものだと考えます。

 おそらく、チーム単体や一人の指導者だけの思考では創出できず、時間をかけて、あらゆる立場の人の試行錯誤とそれらで得られる知見やデータを持ち寄り、「まずは現状コレでやってみよう」と定めてみて、うまくいかなければバージョンアップしていくことでアップデートが機能していくのではないかと想像します。

「日本型バレーボール観」をアップデートさせる

 バレーボール指導者もそろそろ、「選手をどうするか?」、 「選手に何をやらせるか?」というハウツー(how to)やトゥードゥー (to do)よりも 「何が起きるだろうか?」 という視点を大事に、練習やトレーニングにおいてカスタマイズ、観察、対話しながら試行錯誤し、その時点で選手たちが主体的に最適化を図るためのチューニングをしていくイメージをもったらいいのでは?と考えています。

 バレーボールの中に限った話でも、これまで様々な問題が取り上げられ、それらの改善のための提案も各方面からなされてきました。

・暴力(体罰)や暴言などのモラルハザード
・質より量のオーバーワーク
・画一的な型にはめる指導で生じる不自然さ
・目先の勝利至上主義によるバーンアウト
・ネットの向こうにいる相手を無視したワンパターンなジブンタチノバレー問題
・動作原理とかけ離れた謎理論
・ルールを軽視したキャッチ問題とキャッチ製造指導法

 これら幾つもある諸問題に対するキー(鍵)として、現在の自分の中で、思考がクリアになりつつある概念がいくつかあります。

・「複雑系」
・「非線形的なシステム」
・「システム思考」
・「暗黙知」と「形式知」
・競技の「階層構造化」による練習やチームの構造
・「制約主導的なアプローチ」

などです。
 これらについては、私自身まだまだ、完全な理解には未踏ですが、それでも少しでもこれらの概念に触れながら、理解まではいかなくとも共感や関心をもつことで、従来のバレーボールの見方や考え方、そして練習のアプローチやコーチング内容までもが大きく変わってきています。
 今回は、これらの概念に通じるトピックスを以下の3つ言及しておきます。これが、従来のバレーボール指導や技術論を、さらに前へとアップデートしていく入り口になると考えます。

(1)「複雑度」について

 バレーボールが、仮にサッカーよりも複雑度、不確実な要素が低いとはいえるかもしれません。しかし、 その複雑度や不確実さの存在を一旦認め、許容していくことが、日本のバレーボール界では必要です。
 すべてを言語化しようとせず、言語化しきれないものを肯定的に認め、わからないものはわからないものとして、プレーや練習をとらえることで、指導方法や練習の組み立ては変わってくるはずです。

 逆に、サッカーよりも複雑度が低いゆえにできることがあるとも言えます。サッカーよりも限られたスペースと高い密集の中にあり、サッカーと違って手を使えるという操作性の高さがあります。同時に、ボールタッチ3回という制約もあるため、ある程度「バレーボールというゲームの中で起きていること」は明らかにしやすいです。バレーボールの方が複雑度が低いので構造化しやすいわけです。このことから、感覚的な説明に終始するのではなく、すべての人員で、共通理解を図るための共通の認識や共通言語をもつことが可能となるわけです。スロットやテンポ、ゾーン・マーク、フロアのエリア化・・・こういったものや用語の必要性につながってきます。

 バレーボールは、タイムや距離、重量等のパフォーマンス競争ではありません。技術競争からチーム戦術とチーム戦略による、戦略性をともなった得点奪取の争いです。チームの平均身長差や技術差だけでも勝敗を決定づけられませんし、どれか一つまたは限定的な数値データだけで勝敗を説明しきれません。バレーボールにおける「データー」の取扱や概念も、まだまだ発展途上な気がします。複雑系であり、非線形的な様相をもつバレーボールにおいて、そのゲームの中で切り取られた場面の統計的な数字が、ゲーム展開や勝敗の全体像をとらえることができるかと言えば、必ずしも言い切れないからです。

 よくわからないを肯定的にとらえることで、選手の主体性を尊重し、試行錯誤の重要性を感じることができます。
 また一方で、多面的・多角的な知見を共有し、これも関わるすべての人員でディスカッションや試行錯誤を重ねたうえで明らかになってきたことをもとに、わかることをできるだけクリアにしておくこともできます。
 複雑系であるバレーボールでは、このあたりの整理がなされなくなってきたため、多くの混乱とアップデートの停滞が続いてきたと考えます。サッカーよりも不確実性や複雑性が低いがために、技術論や指導論に要素還元化が浸透しやすく、個人技やチームの行動パターンにフォーカスされやすいがゆえに、複雑系としての成長の視点が生まれにくくなってしまったのです。
 量や負荷や消耗の大きさからくる厳しさなど、比較的数値化しやすいものは競争では発揮されやすいです。加えて、人は自己集中の方が得意であり、内的集中傾向と、そこからある人の成功体験からくる、美しさや正しさなどの指標を追求する傾向が起こりやすくなります。こういったことが、日本のバレーボールの戦術や指導方法が世界から取り残され、ガラパゴス化と迷走化が90年代あたりから顕著になっていったのだと考えています。

しかし、「正直分からない」ことは、
・一個人の主観だけでは断定も解決もできるわけがない
・多面的多角的な考察と知見との照合が必要
・他者が言語化したものからの伝聞だけではミスリードが発生する
・一つの要素だけでは説明できない
こういったことを、肯定的に共通認識としておくことで、混乱していたことがクリアになってくるのではないでしょうか?

(2)「言語化」について。

・言語化できるもの、言語化すべきことがまだ言語されていない
・言語化しなくていいもの、本来言語化できないことを言語化している

という二つの流れが、日本のバレーボールにおける思考や指導をややこしくしていることが往々にあると考えています。

「暗黙知」と「形式知」という言葉があります。
それぞれ、知識を習得・保持するための異なる方法です。

「暗黙知」とは、
 言葉では、すべてを言い表すことのできない、個人的な経験や知識、感覚のことを指します。このような知識は、個人が何かを実際に行っているときに獲得され、主に非言語的な情報を通じて伝えられます。たとえば、自転車に乗ることや泳ぐことを学ぶ際には、言葉では説明しきれない身体的な感覚を得ることが重要です。暗黙知は、個人的な経験や実践を通じてのみ獲得でき、その性質上、他人に伝えることが困難である場合がほとんどです。

「形式知」とは、
 言語や記号などの形式的なルールに基づく知識のことを指します。このような知識は、主に言葉や図形などを通じて伝えられ、教育や訓練などのプロセスを通じて習得することができます。たとえば、数学の公式や科学や物理の法則などは、形式知の例として挙げられます。形式知は、言語や記号などを通じて明示的に伝えることができるため、他人に伝えることが容易であり、共有された知識として広く活用されます。

 このことから、「暗黙知」と「形式知」は、知識を習得・保持するという点においては、共通していますが、方法や機能としては全く異なる方法であり、それぞれの特性や利用価値が異なります。テクニック、技術とよばれているようなものは形式知としてとらえ、スキル、技能とよばれるものは暗黙知としてとらえ、 この違いを認識する。
 日本のバレーボールの指導では、この点で多くの誤解や混乱が続いています。
 例えば、熟達者や上級者が説明する、プレーの解説や方法論などに関する情報は、本来はその人の「暗黙知」であるのにもかかわらず、各々のもつボキャブラリーで「言語化」をした瞬間に「形式知」として人々に広まります。しかし、「暗黙知」は本質的に一般化、普遍化することは無理なものであって、このことで、バレーボールの指導の中で、物理法則や動作原理に反するような指導内容が数多く生まれています。オーバーハンドパスのキャッチ問題や、ディグやレセプションの低い姿勢で正面でとらなければいけない問題などがその例です。多くの混乱を引き起こしているのです。
 近年注目されてきている「教えないスキル」というのも、言語化できないことは、無理に言語化しない。複雑系というシステムを認識したうえで、形式知と暗黙知の違いを認識し、暗黙知を無理に他者にはめようとしないこということになるのだと考えます。

(3)バレーボールを構造的に理解する

攻撃は相手に影響を与えて作用し、味方の守備が起点となります。
守備は味方に影響を与えて作用し、相手からの攻撃が起点となります。

ボールにコンタクト(またはヒット)するする選手(on the ball)とボールにコンタクト(またはヒット)していない選手(off the  ball)とがいます。

自チームのゲームモデルとそれに基づいたプレー指針を意図的に遂行できているインシステムと、相手による作用によってその遂行や維持が困難となっているアウトオブシステムがあります。

バレーボールを構造的にとらえることで、暗黙知的なものとは別に、複雑系でなかなかとらえられにくい現象を、ある程度クリアに、説明や分析に迫れることもあります。

 様々な要素を考慮し、実現可能な現実的な自分達の試合の模型(ゲームモデル)をつくっていく。そうして設定される「ゲームモデル」を基に、どのようにプレーするか、トレーニングするか。ゲームモデルは試合の模型のようなものであって、チーム全体が同じ状況の認識、解決法の判断をするために、チームが行う試合を明確化したものともいえます。 それは、チーム内の共通認識、戦術的なマップとなるものであって、理想のバレーではなく、チームの状況を考慮して現実的なバレーを考えるものとなります。
 次に、ゲームモデルを達成するための個人の判断基準、行動規範、タスクなどが具体化されていき、「プレー原則(指針)」が定まってきます。
 こうして、ゲーム中に起こり得るあるシチュエーションに対して、どのようにゲームモデルに則した「状況認識→プレー指針の遂行」という個人の判断・選択ができるかが、ゲームでは重要になってきます。自己から離れた、相手とボールという、2つの他者への集中に必要な共通理解と意思決定モデルが必要なわけです。オリジナルの前提は、基本や標準が対等もしくは上回ってこそ出現するものです。

 しかし一方で、目的と手段を間違えてはいけません。ゲームモデルやプレー指針が過度に目的化してしまうのは危険です。バレーボールの構造をとらえる、つまりは氷山の一角のごとく表面上のプレーを取り繕うのではなく、その土台からしっかりとした理解と習得と共通概念化を図ったうえで、やっていることがすべて意図的かつ機能的に遂行されていなくてはなりません。

 自分に勝つのではなく、ネットの向こうの相手に勝つために思考錯誤をする。ネットの向こうにいる相手からもたらされる要素と、自チームの味方からもたらされる要素を考え、個人としてだけではなくチームとしての影響の与え方・影響の与えられ方を考える。コートに立つ選手のプレーを入り口とした暗黙知、コート上のチームとしてのゲームを入り口とした暗黙知を尊重し、断片的な情報に偏った不必要な介入や強制を控える。ボールが言語であり、ボールがコミュニケーションとなる。オフェンスは多様化を確保し、かつディフェンスは単純化を図りながら、自チーム主導の展開を意図的に維持する。
 単なるハウツーの収集と結合だけでは、バレーボールという複雑系の本質にはたどり着けないわけです。特にコーチ(指導者)は、バレーボールの構造を把握しながら、分析やディスカッションの土俵を整える。そこからすべての人員によって試行錯誤がなされるべきなのです。

結局何が言いたいのか?・・・日本のバレーボール指導者の学びの「はじめの一歩」

 私は、バレーボールの指導の世界に入った時から失敗の連続と違和感を抱き続けてきました。それは、当時から受けてきた情報やレクチャーが、あまりにも自分のチームの指導に生きることが少なかったからです。そしてそのたびにその責めを選手に転嫁してしまった過去があります。今思うと、ハウツーやトゥードゥーの収集以前に、知っておかねばならなかったことが多くあったわけです。

・育成年代競技では、選択と集中思考による様相が強く、バレーボールという複雑系の本質に迫っていない。
・形式知偏重思考
・問題指向的アプローチ偏重思考
・複雑系のという認識の無さとシステム思考の欠如からくる要素還元的思考の流布
・運動学習主体の阻害

 こういった考察をこれまで、どの講習や研修でも目にすることもなければ耳にすることもありませんでした。しかし、情報化が進みつつある現代の中で、バレーボールに対する見方や考え方も大きく変わる契機にきているのだと感じています。

 過去に日本のバレーボールは世界の頂点に立った経験があります。しかし、近年は90年代以降においては世界の頂点を争う土俵にも立てていないことが多かったです。これに対して、サッカーやバスケットボール、ラグビーは世界の頂点には未踏であり成長途上にあります。この違いが、競技に対する研究や探求、時代とともに起こるべきイノベーションやアップデートの起きやすさに差となっていると思えます。
 一方で、チームスポーツ、ボールゲームという括りで考えた時、バレーボールは他競技と同じようにとらえることができない側面がいくつもあります。
 チームスポーツとしてサッカーやバスケットボールに近いがでも違います。ネットを挟む対戦型としてバドミントンやテニスに近いがでも違います。チェスや将棋のようなものでもなければ、シミュレーションゲームでもない。団体芸でも集団芸でもありません。
 広大な空間(フィールド)、腕や手を使えない、人員の多さ、対戦相手との接触・・・複雑性が増すサッカーでは、自分(たち)でのボールコントロールにおける制約が大きいです。

 これに対し、バレーボールは、腕や手による操作が可能です。己の技術に集中しやすく、インナーゲーム化されやすいです。ですからゲームの全体像や対戦相手の思考に意識が向きにくくなっていきます。
 さらにバレーボールは、サッカーに比べて構造が見えやすいです。サッカーなどよりもスペースが狭く、フロント3人、バック3人と言う人員の配置もあります。それゆえ、その「複雑性」や「不確実性」が小さいバレーボールにおいては、ゲームやプレーで目にする現象が、どうしても形式知化されやすく、本来、言語化や定量化しきれないはずのことが、個人の感覚や主観によって、あたかも解明されているかのような言説となることも多かったわけです。それゆえ、動作原理に反した指導理論が長年まかり通り、過剰な精神論が横行し選手や保護者の思考停止を増長させてきた側面があります。
 バレーボールで言われているフォーメーションとか配置、パターンというものが設定されたとしても、やろうとしていることや起きている現象、戦い方がほとんど変わらないという現象もいまだぬぐえていません。

 これからのバレーボールの見方や考え方や指導アプローチでは、よく耳にする「練習の引き出し」といわれるようなハウツー収集と模倣に終始して満足するのではなく、より「バレーボールとは何か?」に立ち返りながら、選手やチームの持続可能な成長と発展を導くものでなければいけません。魚たちや鳥たちに個別の指令や命令を出したり、その群れ全体像を指導者が形成するようなアプローチではいけないということです。

 コーチ(指導者)が学ぶべき「はじめの一歩」とは、「やり方」よりもずっとずっと大事な「見方や考え方」になるはずです。

 バレーボールにおける自発的な創造を促すのがコーチの役割において重要です。そして自己のボールコントロールとの戦いでとどまるのではなく、対戦相手や相手チームとのゲーム、相手チームの思考と戦う。フレキシブルかつエンソトリックな選択をしていく。

瞬時に発生する事象の把握→意図をもったリスクテイクと可能性を判断→選択と意思決定を共有する→ラリーの中で最適解を見出した方が得点する

・・・こういったサイクルを主体的かつ能動的に維持していくことが必要なマインドセットです。ミスやエラーと共存し、今の最善に集中すること。ディベロップメント(展開)を見通す先見性と自チームでの個人と組織の強みの発揮、そして忘れてはならないのが、ネットの向こうの個人とチームに対する無効化と妨害の視点。そのためには自己犠牲と貢献を厭わない。それらはメンタルという言葉でひとくくりにされた感情や精神論ではない、ゲームというものを俯瞰しながらの試行錯誤と思考錯誤になります。

 バレーボールは、そう簡単に説明できるものでもなければ、パーツに分解できるような単純なものではありません。「奥深い」からこそ、多くの人がその魅力や醍醐味を感じているはずです。
 バレーボール指導者がまず求めるべきことは、魚を得ることでもなく、魚の得る方法を収集することだけでもなく、魚の特性や魚を得る方法が、どのような見方・考え方によって成り立っているかを、皆さんと一緒に学び、探究して、知ることをやってみたいのです。これが、これから求められる「はじめの一歩」ではないかと考えています。そうすれば、今の日本のバレーボール指導が抱える諸課題の解決にもつながると確信しています。

(2023年)