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ヒーロー、ヒロインを待たずに育てる

 スポーツの見方や楽しみ方にはいろいろあります。その人の楽しみ方に、どれがいいとか悪いとかはありませんよね。
 特にバレーボールは、野球やサッカーと同じように、チームスポーツですから、チームを応援したりチームの戦い方に注目している人もいれば、そのチームにいる選手個人にスポットを当てて、応援したり注目している人、またはその両方などがあるんだと思います。
 私もスポーツ観戦は好きで、特に野球やサッカーは毎年、球場で生観戦をけっこうしています。選手個人の応援はもちろん、チームの成績や戦い方など、知ることが増えれば増えるほど、見ごたえも増しますし、応援のし甲斐もあるというものです。

個人の魅力も大事だがチーム、組織へのこだわりも大事

 バレーボールに関する情報について個人的にお願いしたいのは、メディアなどから伝わってくる情報についてです。日本では、どうしても選手個人に焦点があたることが多いような気がします。その時々のヒーロー、ヒロインの出現や、次の後継者は誰か?みたいな話ばかりに目が行ってしまっているように思うのです。
 もちろん、個人の能力の高さは重要ですし、個人のパフォーマンスが勝敗に与える影響も小さくないです。ゲームの勝敗に、「キープレイヤー」という存在の影響も大きいと考えます。
 バレーボールでは、スパイクを決めて得点した選手、強烈なサービスエースを獲った選手、キルブロックでポイントを獲った選手・・・こういった場面では、その選手が頑張ったとか、すごい、といったことは、観ている人なら誰でもわかることです。
 でも、野球では配球のかけひきや読み、走塁の巧妙さによる得点があったり、サッカーでもポジショニングの妙や巧みなアシストプレーによる得点があるように、バレーボールにも、得点やナイスプレー、ファインプレーなどの眼に見えやすいもの以外にも、重要な見どころはあると思っています。

◆ 「組織的」=「支配型統制」ではない

 どんな世界にも言えますが、組織的とシステマチックというと、何か決められたパターンがオートメーション化して遂行されているように受け取られることも多いです。
 しかし、組織的というのは、選手がリアルタイムに状況判断し、柔軟に相手に対応して変化を見せていくような、フレキシブルなシステムやチームワークというのもあると思います。
 組織的というものが、指示された通りに実行することや、ワンパターンなスタイルを貫くことではなく、相手の状況や変化に、自分たちのより良い方法をチームとして選択し対応させていくことも重要です。

◆「分業」=「分能」ではない

 リベロは今や守備専門だけではなく、セカンドセッターの機能も必要です。セッターは、セット(トス)だけではなく、ディグの要でもあり、サーブやブロック能力もスパイカー同等なものが求められています。ミドルは、ブロックやクイックだけをやるスタイルはもはや半世紀並みな遅れた発想となります。ミドルは、ディグやサーブレシーブ(レセプション)もでき、バックアタックもでき、サーブの威力も期待できるものではありません。
 バレーボールは、今やスキルを仕分けた「分能」ではないという認識が重要です。
 そもそもバレーボールのポジションの種類は、ルールで規定されているものではありません。ですから、ミドルは~すればよい・・・という限定的な発想では立ち行かなくなってきているのです。

◆「個人」よりも「戦術的視点」

 〇サーブとブロック
  サービスエースをとっただけではなく、打ったサーブによって、
  相手の攻撃がどのように弱体化させたかの視点がこれからは重要です。

 〇ブロックシステム
  配置や反応、枚数が、いつもワンパターンなまま終わっているのか、
  それとも1セットの中で何か変化や変更が見られるのか。
  そういったあたりにも注目しておきたいです。

 〇対相手ブロックに対するオフェンス
  ブロックに対するスパイクはどのような意図があるのか。
  対ブロックにおける数的優位をどのように生み出しているのか。
  相手のブロックシステムを把握しているのかいないのか。
  ゲームを観る側の視点も重要です。

 〇セッターの「選択」
  セッターは、なぜそこにボールを供給(セット)したのか。
  その選択はうまくいったのか、いかなかったのか。
  その理由はどこにあるのか?
  トピックの一つとして重要です。

個人への依存から脱却し持続可能な強化

「~の後継者」、「ポスト~」、「~の穴を埋める」・・・

こういう見方だけにいつまでもこだわるのではなく、
個人の活躍の前に、組織的な機能や戦術の効果などを見たうえで、その中で個人のパフォーマンスがどう発揮されているかを考えた方が、バレーボールの試合では大事かなと思います。
 そろそろパーソナリティに強化や人気の向上を頼ることから脱却すべきだと思っています。これまで、特定の個人に期待を集めすぎ、その重圧によって選手としての将来性を奪われてしまったバレーボール選手が日本にはたくさんいるような気がします。でもバレーボールは組織のスポーツ。誰か一個人に勝敗の責任を背負わせるべきものではないですよね。
 「人」の魅力を追いかけるのも楽しみ方の一つです。でも、楽しむ側の視点としてではなく、その責任や期待を選手個人に委ねるのは少し違うような気がします。
 それ以上に、プレーやゲームの醍醐味や面白さ、バレーボール自体の魅力をもっと広く多くの人に知ってもらいたい。そのための伝え方っていうのが作られていくべきだと思います。

なぜ、アンダーカテゴリの育成にこだわるのか

「育成」を考えるうえで、

「バレーボールでみんながハッピーになる」

というのが大事だと思うわけです。
する・みる・支える・・・大人も子供もどの地域やカテゴリも・・・
みんながバレーボールでハッピーな気持ちになれるかどうか。
それが「育成」の成否の根本として重要なのではないかと思った1年でした。

勝利や成功で得られる喜びや幸せがある。
タイトルやステージアップで得られる喜びや幸せがある。
人との出会いの喜びがある。
新しいことを知った学んだ喜びがある。
いろいろあろうかと思います。
でも、そのような喜びは幸せは、「すべての人」にもたらされなければならないと思います。
 高みを極めた一部の人々だけが幸せになり、それ以外の人々は幸福な気持ちになれないようではいけないと思うわけです。でも勝ち負けはスポーツや競技をやる以上は生じてくるわけですから、「すべての人がハッピーになる」というのは、別のコンセプトや価値観が必要になるんだと思います。
 よく指導現場では、対戦相手を敵と呼んだり、目標設定を相手を倒すなどという表現をするのをみかけます。そんなコンセプトでは「バレーボールですべての人が幸せになる」という状態はいつまでも達成できないんだと思います。
 ファンの間では、戦術、選手個人の為人、国内・海外・・・など、人々の志向の違いが話題になることもあり、時には意見が対立することも見受けられてきました。
 対立というのはゼロにはできませんが、それでも共存やコラボレーション、相互理解などで、すべての人がハッピーになる余地というのは、まだまだたくさんあると思うわけです。

 「育成」という言葉が使われる場合にもそのニュアンスや定義には様々な違いあると思っています。例えば代表チームや国内リーグなどにおける選手の「育成」は、ある程度セレクトされたスキルや経験のある一定レベル以上の人々を対象としています。私はこれは、「強化的育成」と呼ぶか、育成とは呼ばない方がいいのではないかと考えます。

 私がここで言うところの「育成」とは、子どもたち・・・つまりは学齢期(高校生くらいまで)をターゲットとして、しかも「彼らのすべて」を指す概念として考えています。
 先ほど申し上げた通り、ここ最近の日本のバレーボールでは「育成」の議論やイノベーションは不十分だったと感じています。率直に言えばあまり変容や進歩は感じられませんでした。

「楽しむ」・「尊重」・「探究」

この辺りが、バレーボールにおける「育成」の取りかかりとなる要素になってくると思います。そこに「すべての子どもたち」を掛け合わせていきますと・・・。やるべきことや取り組む余地は膨大なものになるのではないでしょうか?
 
 日本では、これからの教育の大きなテーマの中に、「主体的・対話的で深い学び」というものが掲げられています。
 このテーマは、実は日本のバレーボールの指導現場にも通じる課題なのではないかと思います。
 「主体的」、「対話」、「深い学び」・・・どの言葉もその解釈や理解は一言では説明しきれないものだとは思います。
 子どもたちの「主体性」はどうやって生まれてくるのか?
 一見、自立し統率されているようなチームでも、その根元は指導者や保護者の意向や思惑によって仕向けられていることが多く、それは「やっている」より、「やらされている」側面が強いわけです。一生懸命やっているようで、実は一生懸命やらされているわけです。これでは主体性があるとは言い難いわけです。
 子どもたちにとっての「対話」とは何か?
 対話には、「他者との対話」と「自己との対話」があります。
 他者との対話では、相手への敬意や相手から吸収しようという姿勢が重要です。いくら礼儀正しくとも、相手の考えを理解できない思考力の浅さや、建設的なディスカッション能力ができなければ、他者との対話は成立しません。
 「対話」で見落としがちになりやすいのが「自己との対話」だと思っています。自分のことを振り返って、思考や感情を整えたり、自分へフィードバックをして学習を促進させたりなど、試行錯誤や工夫という作業を成立させるためには不可欠な要素です。
 「深い学び」とは何をもって達成されるのか?
 それは新しい気づきや発見はもちろん、仮に新しい成果や知見がもてなくても、自分自身で仮説や検証をし、一定の方向性を見出す「プロセスを経験する」ことで学びを深めることになるんだろうと思います。

「育成」において、
「すべての人々(子どもたち)がハッピーになる」
ことを実現させる。
試合で勝った者たちだけが幸福感を得て、そうでない者たちは幸せになれない。
選ばれた者だけが幸せになり、選ばれない者たちはハッピーになれない。
キャリアやステータスを得たものが幸せで、そうでない者は不遇を味わう。
これが根深い日本のバレーボール界の育成における課題なんだと思っています。

「楽しむ」・「尊重」・「探究」

ここに、「主体的」・「対話」・「深い学び」が結びつくと思います。

同じことをやっていても、夢中でどんどんチャレンジし続ける人もいれば、必死に苦しみながらやらされている人もいる。
自分の中に起こるイノベーションを求め、貪欲に吸収しようとスクラップ&ビルドを重ね試行錯誤の中から最適解を探る人もいれば、絶対解を信じ他の可能性を排除しながら突き進む人もいる。
(成長欲求という)自分のためにチャレンジし続ける人もいれば、自分の承認的存在意義を守るため他者を標的にしてマウントをしてくる人もいる。

でも、普遍的なのは、他人の幸福を誰かが奪うことがあってはならないことです。そして人のチャンスや可能性を潰していいということにはならないということです。
 今一度、日本のバレーボールにおける「育成」をみなさんと考え、イノベーションを起こしたいというのが夢です。
 すべての子どもたちが、大きな夢や目標に向かって、生き生きとバレーボールを生活の一部にすることができる。そこに線引きも選別もなく共有されるべき、コンセプトやビジョン、フィロソフィーやバリューがあるはずです。

年中夢球~ものの上手よりも楽しむ

 お恥ずかしい話、私は、友人とボーリングやカラオケ、ゲームセンターに行くのが昔から好きじゃありませんでした。なぜなら、「下手な自分」に対するコンプレックスが強く、楽しめなかったからです。でも、周囲はそんな上手下手に関係なくみんな「楽しむ」ことを目的としていますよね。

 バレーボールのプレーや結果というのは、因果関係が複雑に絡み合って形成されます。そしてミスが起こって当たり前のスポーツ。プレー中はミスをしたあとに、いかにして素早く次のプレーの意識を切り替えるかが重要。そのあとで、なぜミスをしたか、どうすれば同じミスを繰り返さないかを振り返り考えることを怠らないことで、次へのモチベーションへとつなげます。これはバレーボールに限らず、どのスポーツに限らず、人間生活の作業として必要な営みですよね。

 (大人への)お茶出しやあいさつで気が利く選手は試合中のプレーにも生きると言われて指導(教育)されていることも多い(自分もやらせていた時代がある)ですが、そもそもバレーボールというゲームの中の「気づき」を生み出すためには、バレーボールの中の情報や知識がないと気づきにならないわけです。だから、バレーボールの試行錯誤や主体的な工夫をしないまま、他の生活場面での気づきばかりを求めても、バレーボール選手としてのレベルアップには限界がくる。

 すべての子どもたちが、またはすべての大人たちが、
「バレーボールと出会ってよかった」、「バレーボールをやってよかった」
 そうなるために、
 それぞれの「今」やっているプロセスが「夢中」で「楽しい」状態であること。自分が考えていることを表現しても非難されて評価を下げられず自分の立場が脅かされない心理的安全があること。いいものをつくりあげていくために、膨大な時間をかけて試行錯誤を確保でき失敗が許される安心してチャレンジできること。

 こういったことを、バレーボールを通して経験していくことで、ある者はアスリートとして、ある者はコーチやティーチャーとして、ある者はマネジメントやビジネスとして、ある者は親として・・・とにかくあらゆる社会や人生のステージで、生かされていく。これが、「すべての人々がハッピーになる」ということに通ずるんだと思います。

 何かの試練を乗り越え生き残った者たち、勝ち続け成功のレールだけを進んできた者たち、過去のキャリアやステータスを得た者たち・・・一部の人間だけのための幸福だけではなく、「すべての人々・すべての子どもたちに」にバレーボールは何ができるか?
 これが「育成」だと思います。

(2019年)