バレーボールでの経験則・主観・印象操作を打破せよ
「オフ・ザ・ボール」~プレイヤーへの印象操作をなくせ
エビデンスやデータの活用の大切さやその活用の在り方についてもっと議論が進めばいいなと思います。そして、それに基づいた実況や解説がなされると、視聴者だけじゃなくバレー関係者にももっとバレーボールの理解が広がっていくのではないでしょうか?
これまで、バレーボールの戦術論や指導論の中には、少なからず、プレーヤーの経験則や感覚に頼ったものが少なくなく、根拠に乏しいものもあったからです。特にテレビで解説されている方の多くは、ご自身の「過去の」豊富なプレー経験をもとに説明されているわけですが、必ずしも客観的情報ではないものが多く見受けられるわけです。
・はやい攻撃、高速バレーの完成を求める
・サーブミスはチームに大きな悪影響が出る
・Aパスにする精度をあげないと勝負は厳しい
・ブロックにシャットアウトされると致命的
こういった情報が、なぜ日本の指導者のバレーボールのプレー原則やゲームのモデル、中継の解説ではいまだに主流になっているのでしょうか?
これは、日本で多くのプレーヤー経験のある方が、そうやって教わってきたからであり、そう思ってプレーされてきたからに他ならないと思うわけです。
そこでこの「思ってきた」というのが、大問題なんじゃないかと思うのです。
それは、コート上の選手たちが、ゲームの中で常に「委縮」と「消極性」を抱えてしまうという問題があるんだと思います。
➀ オン・ザ・ボール(ボールコンタクトをする)選手の委縮を生む
② オフ・ザ・ボール(ボールコンタクをしていない)選手の消極性を生む
この2点が、日本のバレーボールを窮屈にしており、「ミスを恐れる」、「立て直せない」というような表現になっていくのだと思います。
でも、近年では、日本の中でも
「Aパスにとらわれ過ぎるな」
(Aパスが入ったからといって勝率が上がるとは限らない)
「サーブミスは痛くない、積極果敢に撃て」
(サーブミスの多さが敗因に直結するわけではない)
こういったことを主張する人が増えてきていて良い傾向です。
でも、こういったメッセージは、ファーストコンタクトをしようとする選手とか、サーブを打とうとする選手へのものというよりも、
むしろボールコンタクトをしていない選手たちにとってこそ重要なものだと考えます。
Aパスが入らない、サーブミスをした、相手ブロックに被シャットした・・・
こういったことを、ボールコンタクトをしようとする選手へ想定することを過度に求めれば、当然「委縮」が起こります。
同時に、ボールを触っていない選手の思考も重要なポイントとなります。そういった局面が発生した場合に、その状況をポジティブに考えることができるか、ネガティブに考えてしまうのかで、その後のプレーのクオリティが方向づけられてしまいます。
ですから、これまで実況や解説もそうですが、コーチ(指導者)の指示や伝達内容も、ボールコンタクトをする選手ばかりに視点が行ってしまい、しかもそれがエビデンスに欠けた心情的なものが多いものとなってしまうことで、ボールコンタクトをしていないオフ・ザ・ボールの選手達への思考判断や意識づけの重要性が置き去りになってしまったのではないかと思うわけです。
ボールコンタクトをしようとする、オン・ザ・ボールの選手に対しては、それは、もちろんミスやエラーがない方がいいわけです、要求が強まるのは自然なことです。それは選手自身言われなくても分かっているし、日々トレーニングで向上させようとしているミッションなわけです。
しかし、その視点に偏り過ぎてしまったのが、大問題です。
「オフ・ザ・ボールの選手にも、最後まで得点のための積極性を求める」
これが、カウンターマインドを発生させ、多少のミスやエラーが起こっても、それを修正したり、打ち消すくらいのビッグプレーを生み出すのではないかと思うのです。
セッターのあらゆる体勢からのセット、攻撃枚数を増やそうと4人が助走をとる、サーブは全力で、ブロック・ワンタッチをコスタントに目指す地道さ、パイプ攻撃へのチャレンジ・・・こういった姿勢が物語っていると思います。それらは、ボールを触る選手以上に、ボールを触っていない選手のゲームに対する積極性やポジティブなコミット性によるところが大きいです。
このように、日本のバレー中継の中の解説内容から垣間見られてきた、経験則に偏った説明は、そのまま指導論に波及したり、さらにはプレーヤーのバレーボール観、ゲーム観にも大きな影響(悪影響)が出てくると、私は考えているわけです。
・Aパスにしていかないと勝てない
・サーブミスが多いと負ける
・被シャットは致命的
こういったことを引き合いに話題にしてみましたが、
日本のバレーボールの技術論や戦術論は、これに限らず、多くのある種の「印象操作」によってつくられたものがあるのではないでしょうか?
「サーブミスが痛い」。サーバー以外の選手も落胆し士気が一時的に下がり、次の展開への思考が切れてしまう。ならば、いちいち士気を下げないよう、プランやシナリオを構築しておけばいい。
「スピードで勝てる」。それは、自分(たち)が、相手から目にも止まらぬ速攻やコンボを仕掛けられるのが嫌だから。自分がやられたくないことを、先に相手にすれば勝てると思い込んでいるだけ。でも実際は、相手も自分にとっても難しいことだから、試合中の決定打になるのは難しい。
「Aパスの確率を上げないと勝てない」。それは、プレーしている選手も、コートサイドから見ている人間も「安心」がほしいだけ。
「被シャットが痛い」。でも、それは25点の中で、何点かに過ぎない。スパイカー自身が勝手に落胆してきただけで、ゲームの局面にはそれほど深刻な打撃はない。
「強い気持ち・集中力」。このセリフがゲーム中出ているようじゃダメ。策がないということが表している。
多くの不必要な「印象操作」が働いていて、日本のバレーボール観では、余計な委縮や消極性を生んでいるのだと思います。
特に指導者は、ボールコンタクトの選手に目が行きがちで、選手のマインドやメンタルのこともそこに焦点がいきがちです。他方ボールコンタクトをしない選手には、カバーリングの準備などディフェンシブな指導が多いです。そうではなく、あくまでもカウンターに対してコート上6人全員が積極的になるべきです。Aパス状態であろうが、コンプレックスな局面であろうが、選手たちは自分の置かれた状況の中で、最善のカウンター・チャレンジをしていくメンタリティが重要だと思うわけです。それなのに、「~してはならない」とか「ミスをしてはならない」などといちいち考えては、常にディフェンシブなプレーや消極的なプレーにしかならないわけです。
「ミスは気にしない」という表現から少し踏み込んで、このように考えていくこと。そしてゲームを観たり分析したりする場合の視点としても、大事なことになってきます。
相手に的を絞らせないのは、「はやさ」や「もつ」によってではない
日本のバレーボールの指導では、しばしばオーバーハンドでのセット(トス)のハンドリングで、「柔らかさ」を求める指導者がけっこういたりします。
そもそも「柔らかいハンドリング」って何?っていう問題もあるわけですが、時々耳にするのは、キャッチの反則ギリギリまでボールを「持つ」ことをよしとする指導があるということです。
しかし、バレーボールではキャッチは反則です。なのにその反則に対しギリギリのチャレンジをさせることが、果たして指導なのか?という疑問を私は感じるのですが、実際の指導現場ではそういう人がいるのが珍しくないのが現実です。こういった考え方が、日本のバレーボールで特に子供たちが「キャッチぐせ」がなくならない理由の一つなのかもしれないと思うことがあります。
なぜ、「柔らかい」ハンドリングによって、キャッチの反則ギリギリにわざわざ挑戦させる指導が存在するのでしょうか?
よく聞くのが、相手ブロッカーにセット(トス)の行方の判断を狂わせるため・・・といったことがあるようです。
確かに、セッターの手の中にボールが入り、コンマ何秒かでも長くボールを触っている間があることで、相手ブロッカーは動けないまたは判断を決定できないということは言えると思います。しかし、何度も言いますが、キャッチ、ボールの保持は反則ですから、わざわざそこに時間をかけて練習することはどうなのかなと疑問です。
私は、そういった「キャッチにならないキャッチ」を指導してしまう要因のもう一つに、対するブロッカーのゲス(ヤマ勘)判断がまだまだ染みついているからだと思います。
逆に言えば、現代バレーの主流となっている、シー&リアクトによるリードブロックが当たり前となっていれば、いくら相手セッターがボールをもち気味になっても、ブロッカーは致命的なエラーにはならないはずです。
相手ブロッカーを寸断するのは、セッターのハンドリングを柔らかくすることが第一義ではありません。セッターから供給されるボールの球速を「速く」することでもありません。
バレーボールの戦術的「今」を見ていくと、ブロッカー3枚に対して、攻撃側が数的優位を生み出すことにより、複数枚ブロックからマンツーマン、さらには4枚の攻撃態勢をつくることで、ブロックを寸断していることが分かります。ですから、バックアタックや、バックアタックでさえファーストテンポ化してブロックを寸断しにきているわけです。
・セッターは、「オーバーハンドパス」の技術を用いて、セット方向が多様にある可能性を含んでセットする。
・スパイカーは、複数枚攻撃態勢を作り、助走に入る。
・セッターは、複数のスパイカーへセットできる余地を確保する。
攻撃側が相手ブロックに対抗する際に、「セッターのハンドリングを柔らかく」、「キャッチぎりぎりまで持つ」ということが、どれだけの重要性をもつのでしょうか?ここ数年で、
リードブロックの必要性、
オーバーハンドでのセットの必要性、
スパイカーはブロッカーに対して数的優位を確保する、
なぜバックアタックが当たり前になったのか、
などは、話題や議論で扱われるようになってきました。しかし、まだまだ指導現場では、旧態依然としたものが残っているのです。
反則ぎりぎりに持つセッター=「巧い」という考えにも議論がおよんでほしいところです。そのことで、日本のバレーボールのアップデートが妨げられていることがまだたくさんあるのです。
セッターに、キャッチぎりぎりのハンドリングをさせることに練習時間や練習量を費やすより、もっと大事なことがたくさんあるんじゃないでしょうか?
そしてさらには、セッターのセットが、まるで自然科学の物理原則に反した超魔術的な理論が平然と指導理論とされてしまっている現状もあります。こういった面も、研究された情報をしっかりキャッチ踏まえたうえで考えていかなければなりません。現代の情報化社会において、かつてのインターネットがない時代の理論をそのまま継承すれば、必ずメッキがはがれてきます。
(2018年)