Beautiful Dreamer

浴槽の栓を抜く方法を考えていた。なみなみに溜め込んだお湯をどこかにやってしまえないものかと、そんなことを繰り返し考えていた。羽織っているカーディガンを椅子にかけると、靴下だけを脱ぎ捨てて、風呂場のドアノブを捻って押し込む。ひんやりとした芝生のように明るい緑色の湯の表面に片腕だけを突っ込むと、おそらく松や檜が混じったような森林の香りが立ち上がる。そして擬宝珠に似た金具にだらりと垂れ下がる細っそりとしたチェーンを摘んだら、なるべく栓に近いところまで数珠を爪繰るようにしていき、人差し指にくるりと巻きつけて引っこ抜いてしまいたい。

頃合いを見て集合写真を撮ってくれと言われていたので、歓談を中断してもらい集まってもらったものの、いざ撮ろうとする段になって、当然入っていないとまずいらしい人の姿が見当たらないことに誰かが気づき、いったん探してくることになり、数人がその場を離れた。それでなんとも締まりのない間ができてしまって、カメラを片手に40人くらいと向き合ったままその顔ぶれをなんとなしに眺めていた。小さい子供からお年寄りまで並んでいるが、少なくとも半分くらいは顔見知りだったからかこちらとしては緊張するわけでもなく、主役は揃っているのに、この人がいなければ当てはまりが悪いとされる謎のフィクサーはどんな人なのだろうかと登場を待つ。その間、あえて特定する必要はないし、一言「誰がきてないんですか?」と尋ねれば判明するのことなのだが、退屈しのぎの遊びで、すでに知っているところの人間関係、続柄を繋げていきながら、ペンシルパズルをするように手持ちの情報を頼りに、目の前の人たちの関係性の空白を埋めていくと、自然と誰がこの場にいないのかの予想がついた。ただその答え合わせをすることもなく、案外時間がかかったこともあってか、気がつくとぼんやりと別のことを考えていた。するといつの間にか全員揃ったのだという。

数枚撮った後で、もう少し寄ってくださいと声をかける。これで最後です、と、おもむろにフィルムカメラに持ち替える。そう、息を止めて肩を寄せ合うようにしている瞬間、この人たちは穏やかで親密さを保っていると言える。しかしシャッターを押してしまえばたちまち疎になっていく。それで各々が何事もなかったかのように呼吸を取り戻すのだ。それがどうもつまらない。

フィルム巻き上げレバーがスイングして、金属のボタンに触れていた指先は少し跳ね返される。ワンストライクアウト。芯を捉えた手応えはなく、いまいちだった。凡退していく。その空振りで頼みの綱が切れたかのように、間の抜けた音を合図に守備はベンチに、客は手際よく帰り支度をはじめてこの場から熱がするりと抜けていってしまう。

友人の結婚を祝う席に手伝いとして呼ばれてきたものの、車での送迎がメインなので手持ち無沙汰だった。新郎新婦の親族だけのささやかな会だと聞いていたが、その子供たちがずいぶん多くて終始賑やかな会場にどうも身の置き場が定まらず、頼まれていた写真も一通り撮ったので、廊下に出て突き当たりの窓の傍に置いてある椅子に腰をかけて暮れていく空を眺める。

今はささやかに灯りがともるだけの庭だが、そこを花嫁姿の友人がひとりで横切っていった昼下がりのひと時は鮮やかだった。冬なのに芝生すら枯れていない。そんな緑の間をカラードレスで颯爽と抜けて、庭と開放的なメインホールを遮っている大きなガラス窓を自ら開ける。その飾らない登場にみな不意を打たれながらも大きな喝采で彼女を迎えた。会場で振舞われている大量のレモネードの香りは庭からカメラを構える私の鼻をくすぐった。

廊下を走ってくる小さな足音。人懐こそうな小さな男の子がこちらにやってきて、どうぞと飴をくれる。どこからかくすねてきたのだろうか。水色の包みを捻るとレモン色の球体。口に入れて転がしてみる。しかしそれがあまりに大き過ぎる気がして、その子が口に含んでいたものを吐き出すように促した。喉に詰まらせたら大変だ。だがそう言ってもニヤニヤするばかりで話を聞いてくれない。

やや強引だなと気が引けたが直接指を口に突っ込むようにして取り出した。男の子はやはり泣き出して、どこかに行ってしまった。とりあえず包みにくるんでゴミ箱に投げ入れる。

すると私の口に残った飴の居心地がわるい。甘ったるく回転させてみる。そうしながらあの幸せの凝縮のようなひと時を思い浮かべていたが、いつの間にかまた浴槽のことを考えていることに気づき、まどろっこしい気持ちになって噛み砕いてしまった。指をつたって流れていく水。手のひらのベタつきを洗い流すと会場を出て少し離れたパーキングに停めておいた車を取りに向かう。

おそらく空には満月が上がっているはずだが、それを視界に入れない程度に目を伏せて歩いた。地面の暗さからすると流れてきた叢雲に隠されているのだろうか。それでも寝たふりをしながら大人の話を耳で拾う子どもみたいにこちらを伺っているようでどうも気になる。ここのところ毎晩のように月を眺めていたらすっかり酔ってしまったのだ。いつしかその存在は暗喩そのものになった。結局あの出来事は何かの定めなのか、それとも成り行きだったのかと、繰り返し問いかけるようになっていた。

その悪い観月の習慣のせいなのか、このひと月の間、賑やかなナイトメアに苦しめられて眠れない日が続いた。枕に沈めたはずの頭の中はまるで渋谷のスクランブル交差点に、透明な巨人の風船みたいな頭部が嵌まり込んだみたいに、その海馬をめがけて遠慮もなく様々な人たちが出入りしては交錯する。今でも付き合いが続いている人もいれば、いつかどこかで縁のあったというくらいの人ですら、脈絡なく現れ、また馴々しく語りかけてくる場合もありその不可解さに身構えた感覚が目が覚めても残ることもあった。

そのうち枕元にノートを置いて、どこで誰と会ったとか、どんな状況で会話をしたのか等を眠りが途切れるたびにそこに綴ることにした。普段は目覚めた瞬間から渦を巻くように夢でみたことはどこかに吸い込まれて消えてしまうのだけれど、すぐに文字に起こしてみるとそれを手掛かりに多少輪郭はぼやけているものの印象的な場面をいつでも手繰り寄せることができるようになった。

そうしているうちに、ふとどこの繋がりが不適切で脆弱なのか、また潜在的な関連性が気になりはじめ執着が生まれた。不快に耐えながらもコントロールド・デリバリーではないがすぐに結論を出さずに、背後の組織を一網打尽にするかのように、あえてその雑踏のなかで対象者たちを泳がせて捜査を進める。そのうち現実のアドレス帳から名前を拾い、メールのやり取りを振り返ったり、放ったらかしにしていたSNSからもテキストを引っ張り出して曖昧な部分を補っていく。ついにノートに記される相関図は何ページもまたいで展開し、いよいよ呪術的といえるほどに怪しい様相を呈していた。

ただ結局、主犯格を見つけられなかった。その態度は他責に他ならない。むしろ落ち度ということでは、ノートに書き連ねた全ての関係性を束ねてみたとして1パーセントにも満たない、どうしたって私の過失にこそ圧倒的に比重があった。分かっていながらもその事に向き合うことができずにいたのだが、昨夜とうとうノートを投げ捨ててやった。開け放った窓から流れ込んでくる冷たい風で靄を払うようにして一旦はこの取り組みの不毛さを受け入れた。

窓の月はほとんど満月のように見えた。やはりこの手が届かない遠いところにあるのなら、あの海といわれる薄暗さのなかに落ちてしまわないように、たとえばあなたがクレーターの急峻な岩場を渡らなければいけない日には、前もって鎖を編んで手厚く打ち込んでおくことがそれでもその活路だったように思えて仕方なかった。

車のキーはどこだったかと2台のカメラをサイドミラーにぶら下げてコートのあちこちに手を突っ込む。そういえばノートにペンを走らせるのがまどろっこしくなって、いっそのこと夢にカメラを持ち込めないかと胸の上に載せて眠ることもあった。あるいはフィルムなら私の見落としを拾ってくれるかもしれない。しかしいくらそこで会えた人たちに向けて無制限にシャッターを切れたとしてもそれに意味があるだろうか。明確な根拠があるわけではないが探しているものはおそらく写らないのだ。それであれば答えはすでに出ているようなものだと気がついた。

なんにせよ数枚の写真だけで語れてしまえる人生こそがよい人生なのだと信じている。そこに一緒に写った顔ぶれとの関係こそが私であり、今でもこれからも血潮の通うような繋がりが感じられていること。シャッターの瞬間を思い出して肺に空気を吸い込むと、なにかしらの感情が強く脈を叩くような、そんな数枚の写真があること、片手の指の数ほどでいい。それ以上だとややもすれば損なわれる。それらによって自身の物語を回復させることができることこそ現代を生きていく上での豊かさだといっても過言ではない。

エンジンをかけしばらく車内を暖めていた。この冬はずいぶんと寒い。そういえば暖の取り方について尋ねられたのが最後だった。いつもこっちの話はなんら聞いてくれないのに、そのくせ私だけに話させないでくれとうんざりされることがよくあった。だからなのかエアコンの故障がどうだとかヒーターの購入を検討しているという話に、どこか聞こえてないかのような焦点の合わない返事をした。

車を出そうとしてやや後ろに倒し過ぎていた座席を戻したら瞬間、背もたれに軽く背中を打たれた。あの日、斎場に遅れて入ってきた友人は会場の後ろの隅の席に座り、しばらく素っ気なくしていたが、ふと同じ列に座る私を一瞥すると思い切りレバーを引いた空のリクライニングシートのように勢いよく上半身を前に投げ出すと両手で覆った顔をさらに長い髪で隠して背中を震わせ堰を切ったように大きく泣いていた。真っ白い喪服が余計に悲しかった。私が暖房のことで気の無い返事をした数日後のことであり、満月は少し欠け始めていた。

ヘッドライトを点灯させると目の前に月が浮かびあがる。駐車場に隣接した家の塀から無造作にせり出した黒雲のような葉のなかに大きな柑橘が一つ実っていて、ちょうどまわりの雲に光を含ませているみたいに輝いている。

車から出てその実を手に取ろうとしたが、指が触れるやいなや簡単に外れてしまい、危うく落下させるところだった。瞬間、波打ったお湯が浴槽の水かさを上げてしまうような気がして、両手で大げさに受け止めた。月というのはその気のないふうにみえても渚に波を運ぶのだからと、一呼吸おいてからもなお、みすみす落とさずに済んだことに言い知れない安堵感が手のひらを満たしていた。

車に戻るとダッシュボードにそれを置いてエンジンを切る。しばらくその柑橘をじっと見つめていると、よい香りが車内にゆっくり広がっていき、それと引き換えるように体温が徐々に奪われていく。

本当にごめんなさい。申し訳ないな。それでも私くらいに美しい夢を見続けることができるのなら、生きている甲斐もあるってものだろうに。

ひんやりとした空気に我に返ってエンジンをかけなおす。今ささやいたのは私だったのだろうか。車をバックさせるとダッシュボードの上をそのつるりとした柑橘は静かに転がっていった。

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