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私という男 #5熊本ヴォルターズ時代

社員を辞めプロに

それまで社員として社業をしながらバスケットボールに取り組んでいた私は移籍先の熊本で本当の意味でプロになった。

もうスーツを着て出社することもなければ作業着を着て工場内を周る必要もない。

バスケットボールだけに集中できることがどれだけ嬉しいか私は毎日噛み締めた。


企業チームと新参チーム

当時、私が移籍してきた時、熊本ヴォルターズはチーム創設からまだ2年目という新参チームであった。

健軍商店街の一角にお世辞とは言えないほど狭い部屋にオフィスを構えていた。

選手はそのオフィスの裏にある倉庫のようなスペースで契約交渉していたのが今でも懐かしく感じる。

それまで企業チームにいた私は創設2年目となるチームにきて、その環境のギャップに戸惑うかと思っていたのだが、逆にそれが「プロっぽい」と私はワクワクしていた。


三菱電機ダイヤモンドドルフィンズには自チームの体育館がある。その為、24時間いつでもコートを使用でき冷暖房も完備されている。またチームの荷物も常にそこに置いておくことができ、隣の部屋にはウエイトトレーニングの施設もあった。

それに対し、熊本ヴォルターズは練習会場こそ益城町総合体育館を使っていたが、利用するにはお金が掛かる。そして冷暖房を使用する際には更に追加料金が発生する。

また使用時間の枠にも制限があり、当然だが時間になるまで待機し時間になったらすぐ撤収を強いられる。チームの荷物も置いていけないので、毎回チームの車で運んでいた。

ウエイトトレーニングは公共施設を使用していた為、毎回券売機で選手が立て替えてチケットを購入し後日経費精算という方法をとっていた。

こうして見ると企業チームと比較したら確かに見劣りする環境ではあったが、特別、不便だとも私は感じなかった。


危機感とエゴと責任と

それまで社員だった私はプロの重みを感じていた。

結果を残せなかったら首を切られる。
逆に結果を出せば年俸が上がる。
試合に出なければ結果を出せない。
練習から圧倒しないと評価されない。
食うか食われるか。

私は常にそういうマインドになっていた。

そして、このチームのエースになると自分の中でそう言い聞かせていた。

社員という安泰の道を捨ててやってきた私はたかが1〜2年でクビになるわけにはいかないという危機感があったのである。


ひげもぐら眞庭城聖

当時、私と同じポジションにマニーこと眞庭城聖がいた。

彼とはプライベートでも毎日のように顔を合わせる仲だったが、練習となると毎回喧嘩する勢いでお互いにやり合っていた。

彼は私からしたら本当に素晴らしい選手で正直、開幕するまで私はマニーがスタートだと思い込んでいた。当時、エースになると意気込んでいた私は態度には出さなかったが勝手に落ち込んでいたのを今になって思い出すのである。

しかし開幕戦のミーティングで発表されたのは私の名前だった。

当時、熊本ヴォルターズは清水良規HCが指揮をとっていた。練習もキツく1往復から3往復まで走る3メンは毎回のようにメニューに組み込まれており、外国籍選手はよくそこで練習を抜けたりしていた。試合前日にシャトルランをさせられたのは今でも忘れない。

マニーはどちらかと言うと寡黙な方で、闘志を内に秘める選手なのに対し、私は闘志を全面に出すタイプと、2人は両極端だった。

だから、もしかしたら鬼のように厳しいHCの目にはマニーのその「寡黙さ」がどこかで不貞腐れたように感じとってしまっていたのかもしれない。

結局シーズンが終わるまでマニーはあまり試合に出されることなくこのチームを去って行ってしまった。

私はマニーが大好きだったから彼が移籍すると聞いた時には、彼を認めていたからこそ"ライバル"が居なくなるというどこか安堵する気持ちがあったが、それ以上に凄く寂しい気持ちになったのを今でも覚えている。


妻との出会い

移籍してきて1シーズン目が終わろうとしていた頃、私は妻に一目惚れしていた。

当時、古野拓巳が特別指定で入団してきた時、私の妻は彼の友人として応援に来るようになった。

会場でひときわ顔が小さい彼女はすぐに私の目に留まり、私は古野拓巳に彼女のことを聞いた。

その私の猛アタックが実り、シーズン終わりかけの5月には連絡を取り始め、出会って2週間後には私は妻に告白していた。

もちろん身長が高くバスケが上手でイケメンな私に告白された妻は断る理由なんてなかったであろう。その告白から私たちはお付き合いすることになったのである。

そして同棲するのも早かった。と言うのも私は次にお付き合いする人は結婚するつもりでいたのである。


そしてその年の末。
私はチームの忘年会で当時社長を務めていた湯之上代表と「プロポーズはいつするのか?」という話をしていた。

私はプロポーズは必ずサプライズでしたいと頭にはあったのだが、まさか試合の会場でするとまでは考えていなかった。

そんな私に社長は

「メインスポンサーであるセルモグループさんは冠婚葬祭の会社もあるし、会場でプロポーズする企画も一緒に考えて結婚式はそこで挙げたらどうだ?」と提案された。

この話を聞いた時、私は胸のザワつきが止まらなかった。

人生の分岐点になりうるこの選択に少しばかり勇気が出ず「やります」と即答できない私は迷っていた。

しかし今日ここで返事を濁したら私は次、この決断を迫(せま)られた時に顔を背けてしまうことがわかっていた為、私はあえて自分で後戻りできないために、少しばかりお酒の力を借りつつ勢いのまま返事をした。

「会場でプロポーズしたいです。」と。

この日から私のプロポーズ大作戦が始まるのである。


プロポーズ大作戦

私と会社はまず"どの試合でプロポーズをするか"を話し合っていた。

「できるなら勝った時にしたいよね。」

当然である。誰も負けた日にファンの前でプロポーズなど考えはしない。

しかし当時の熊本ヴォルターズはまだまだ発展途上のチームだった為、戦績は最下位。

故に勝てる試合などどこにも保証できる可能性がなかったのである。

だから私の古巣である三菱電機ダイヤモンドドルフィンズとの試合にしようと決めた。
そして時期的にも翌月の2月8日だったのでタイミング的にもちょうどよかったのである。


私はプロポーズの指輪を買うタイミングを伺っていた。

普段、練習と家の間しか移動しない私が「どこかに行ってくる」と言うと間違いなく怪しまれるので私は遠征の時を狙っていた。

そしてちょうどその頃、私たちヴォルターズは天皇杯で東京に行く予定があったので、私は行きつけであるGUCCI新宿店に行こうと決めていた。(そんなに行ってない)

何故なら妻も私も出会う前からお互いにGUCCIが好きだった為、婚約指輪はGUCCIにすると心に決めていたのである。

しかしいざ婚約指輪を買おうとデザインまで決めたのに妻の指輪のサイズが分からないことに気付く。

本人に聞きたいところだが絶対に聞けない。
しかし指輪のサイズを知る人も限られてくる。

だから私は妻の両親に電話して聞くという苦渋の選択をするしかなかった。

本当はご両親にも内緒でプロポーズしようと考えていた為、知られてしまうのは残念ではあったが、幸い妻のサイズを把握していた為なんとか問題なく購入することができたのである。

無事に買うことができた私は、帰宅するや否や妻に「遠征バッグの荷解きをする」と言って例のブツをバレないようクローゼットの高いところに隠した。


プロポーズ当日

2016年2月8日、ついに時は来た。

実はこの日が来るまでに練習の行き帰りで台詞を考えていた私は試合に勝った時と負けた時のどちらに転んでもいいよう2パターン考えていた。

しかし驚くことに我々は劇的にも三菱電機ダイヤモンドドルフィンズに勝利したのである。これはヴォルターズ史上初の快挙で、私はこの時勝手に"俺は何か持っている"と心の中でガッツポーズしたのである。


試合では一番活躍して自然とインタビューされるのが私という作戦だったが、残念ながらこの日私は7得点に終わった為「古巣相手に感想を」という名目でマイクを握った。

台詞も声に出してあんなに沢山練習したのに結局私は試合よりも緊張していたのを覚えている。

「今日は応援ありがとうございました。」
感謝の意と共に今日の試合の流れ、そして勝ったことをみんなの前で報告する。

そしていよいよ練習していたスピーチに差し掛かる。

「私の人生を考えた時に、人生一度きりしかないなら後悔だけはしたくない〜」

(いかにも私らしい、臭い台詞である。)

会場も「何の話?」とザワつき出す。

そして私の「今日は大切な人にこの場を借りてプロポーズしたいと思います。」という言葉で会場が一気に盛り上がるのを私は肌で感じていた。

私はマイクを持ちながら観客席にいる何も知らない妻の元へ階段を上がっていく。

そんな響(どよ)めきと歓声と拍手が入り混じるなか、私は妻にプロポーズの言葉をかけた。

「今まで側で支えてくれてありがとう。僕の人生を賭けて大切にするので死ぬまで側に居てください。僕と結婚してください。」

この台詞と共に仕込んでいた指輪をパカっと開く私。

それに一緒懸命答えようとする妻は泣きながら口を抑え、頭で頷いた。


こうしてBruno Marsの"Marry You"の音楽と共に私のプロポーズは大成功したのである。


妻は後から私にこう言った。

私が妻の所に行くまで「最後の最後まで私のところに来るとは思っていなかった。私以外にも彼女が居てその人にプロポーズするんだと思っていた」と。

過去に何があったんだろう。
そうツッコミたくなるほど何とも笑える妻であった。



2016年4月16日熊本地震

この話を書かないとこの章は終われない。
それぐらいインパクトのある経験をした。

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