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アロマンティックな自分のまとまらない考え

しいていうならアロマンティックで、
アンチロマンティックラブ・イデオロギーで、
アンチナタリストであるわたしがどうしても

色恋が介在した瞬間、人と人との結びつきを下等なものだと見なしてしまう話


恋愛、結婚、出産、そんなに素敵なものですか?

球場で飲むビールは素敵


この世の全員ではないと理解しているが、恋愛に基づく関係性こそ、人と人との結びつきで最も深く、尊いものだと認識している人間は少なくない。

たしかに現代日本の社会において最も簡単に番をつくることが可能なのは基本、恋愛関係をベースにした男女だといえよう。
婚姻というかたちをもって社会的に認められることで、様々な権利が保証されて、既婚というステータスを得る。

そして上記の男女で番をつくる結婚という行為、そのふたりで子供をこさえる行為は「正常」であり「当たり前にしなければならないもの」で「してないやつは異常」という時代が間違いなくあったのだ。とんでもない話である。

しかし昨年に行われたとある調査ではZ世代の六割は「生涯独身でも気にならない」と答えたそうだ。若者を筆頭に、いよいよ社会や人々の認識が変わってきた感覚はある。

このように変化はありつつも、いまだ価値観をアップデートできないまま根幹にそのような考えを持ち続けている人間は多いように見受けられるのだ。
職場でも「彼女できたことないんじゃないの?」「いい年して結婚してないやつって休みの日とかなにしてるんだろうね?」なんて人を小馬鹿にするような言葉を、ただ異性と番い性行為をし孕ませるという原始的な行為を成しただけの人間が優越感を滲ませながら口にする場面に出くわす。

そのたびにわたしは、そんなに恋愛やセックスってそんなに素晴らしいもんかねと吐き捨てたくなるのだった。

承認としての結婚、ならびに恋愛や性愛

現代日本において結婚はひとりの人間としかできない。また恋愛も大前提としてはひとりの人間とのみ「交際」するものだ。

確かに番をつくるという行為は相手を唯一無二の存在だと認め、また相手にも自身を唯一無二の存在だと認めてもらうことだといえる。

性行為にしても誰も彼もと見境なくする人間や出会ってすぐする人間もいなくはないだろうが、少数派であろう。
大多数の人々は、各々がもつそれなりの基準を満たした相手とそれなりの関係性を構築したのちに、双方の合意の上で行うはずだ。

他者と番う行為や性行為、ひいては恋愛や性愛という関係性をもつことは相手の存在を一定の基準で承認していることと同義となる。だからこそ、その経験を勲章のように誇る人間がいるのだろう。自分はこんなにも他者から認められた人間だとお墨つきを得た気持ちになるのかもしれない。また同時に「お墨つき」のない人間は人間として劣っていると見下すのだろう。

いや、めちゃくちゃしょうもない話じゃない?
しょせんセックスだよ?
そんなことで人の価値を決められるわけなくない?

そもそも、恋愛による承認とは承認の中でそんな位が高いものなのか?

身も蓋もないことをいえば、人間も動物だ。
しかし、動物だが、自らを「霊長」類と分類するように他とは一線を画した生き物である。言語をあやつり、その言語によって思考を構築して、他者とコミュニケーションをとる。他の動物にはない高等な能力をもつ。

そんな人間が自分の価値を見出す基準に、極めて動物的な性愛に基づいた事象を用いるのはあまりにもナンセンスなのではないだろうか?
極端なことをいえば、異性と番をつくり繁殖するなんて行為はそこらの虫けらにも可能なのだから。

性愛や恋愛を大切にする人間の存在は否定しない。
ただそれらを人の価値をはかる基準とすることは腑に落ちない。
恋愛やセックスは身ひとつでできる、手軽で、簡単な娯楽にしかすぎないと、わたしは思うからだ。

恋愛ごときを根拠にするな

ひと昔前に蛙化現象という言葉が流行った。
好きだったはずの相手に興味関心、ひいては恋心や性欲を向けられると急激に気持ちが冷めてしまう現象だ。

自身にも覚えはある。
ただこの現象が指すのはおそらく、当人の経験値の少なゆえに相手を理想化しすぎたため、現実と理想のギャップに萎えてしまうものというものであろう。
わたしの感覚はそれとは少し違う。

自分でいうことではないかもしれないが、客観的にみてわたしはいわゆる「男性ウケ」するような容姿をしていない。
顔立ちも体つきもとくだん美しくないし、髪型や服装も少年のようで女性らしさとは掛け離れたところにある。
なのでわたしに恋愛感情を抱く男性は必然的に容姿へパッと惹かれてというわけではなく、人と人としてコミュニケーションを経たうえでわたしを好いていることになる。それが苦しい。

わたしは、恋や性を差し引いたあなたという人間そのものに惹かれて、あなたもそうだと信じていたはずだった。そこに色恋を持ち出されると自身の人間としての価値や人と人同士で築いたはずの関係性を途端に凡庸でつまらない「色恋」におさめられてしまうことになる。

わたしたちのコミュニケーションを重ねて築き上げた信頼や情愛、そんな希少で唯一無二であったはずの関係性が、動物ですら成し得る色恋に落とし込まれてしまうのがたまらなく悔しい。
同時に自身の振る舞いが相手に勘違いをさせてしまったのかなという自責にも襲われる。

先にもただの娯楽だと述べたが、どこかでわたしは色恋に基づく関係性を低俗なものだと見なしているのであろう。

いってしまえばセックスなんて出会ったその瞬間にしようと思えばできる即物的な行為である。
だが信頼や情愛はお互いに自己開示をしてコミュニケーションを積み重ねて、やっと手に入るものなのだ。その尊い営みをセックスがゴールにある色恋へ落とし込まれるのはやはり納得がいかない。
恋愛対象の人間と打ち解けたからといって、すぐ色恋に走る人間はもったいないと思わないだろうか。やはり恋愛こそ人と人との最も尊い関係性だと認識しているからなのだろうか。

そんな悔しい思いをするたび、もしわたしが男性だったら打ち解けたとしても彼らは色恋の方向へ舵を切らなかったのではないかと思うが、もしわたしが男性だったら彼らはわたしにここまでよくしてくれなかったかもしれない可能性に思い当たり、かさねて絶望を味わうのだった。

このようなことを人に話して「性嫌悪」「男性嫌い」と勘違いされたこともあったが、決してそうではない。
わたしはただただ恋愛と、それに基づいて行われる繁殖が嫌いなのだ。

冒頭で述べたように現代日本の社会において最も簡単に番をつくることが可能なのは基本、恋愛関係をベースにした男女だ。
婚姻というかたちをもって社会的に認められることで、様々な権利が保証されて、既婚というステータスを得る。場合によっては子供を産み育てることになるのだろう。

その長期的で社会的な営みを行う根拠が、極めて動物的な恋愛やセックスに基づくのはどう考えても間違っていないだろうか。

恋愛や性行為は理性や知性と対極にある行為である。

恋をした人間も性欲に飲み込まれた人間も正常な状態ではない。傍目に見てもわかるほど顔つきや様子がおかしいことすらある。
その状態で「家庭」をともに運営していくパートナーを選ぶなんて至難の業であろう。

やはり恋に落ちて結ばれて場合によっては子供をつくり「家庭」という組織を運営していく恋愛結婚というものはあまりに非文明的だと言わざるを得ない。
デキ婚なんてもってのほか、論外である。
これらがスタンダードな社会的パートナーの作り方としてまかり通っているのだから、もはやバグだ。

愛は知ってる、性欲も知ってる、恋だけがわからない

人の恋愛話を聞くのは昔から好きだった。
恋愛感情という自分ではまったく共感できない心の機微を掘り下げることは好奇心が刺激されたし、わたしからすればたいしたことでない出来事で心を揺り動かしている彼らはとても愛らしかった。

ただわたしにはその感情がどうしても体感的には理解できないままなのだ。
わたしにも好きな人はたくさんいるが、それはあくまで情愛と信頼に基づくものであり、「好きな人」のなかには、恋バナをしてくれた彼らがいうようなあらがえない唯一無二の衝動を与えてくるような人間はいない。

間違いなく好きなのだが、恋愛かといわれるとわからない。
以前、人にこのようなことを相談したとき「キスしたいと思うかじゃないの?」と性的な行為の可不可を基準にするという指針を渡されたこともあったが、年齢が極端に離れておらず、相手もわたしのことをある程度に好ましく思ってくれているなら「好きな人」たちみんなとわたしはそのような行為ができるだろう。
なんなら「好きな人」の範疇にいる人がそれを望むなら応えたいとすら思う。

恋愛が体感的に理解できない。
だからこそわたしは恋愛を根拠に社会的な営みを送る結婚、ひいてはそのペアで子供をつくる行為も解せないのだろう。

いっそのこと「恋愛がしたいから」「結婚がしたいから」「子どもをつくりたいから」と自身の人生や生活を豊かにするための目的が前提にあり、番をつくるために積極的に行動する婚活などのほうが理解できる。

婚活をするような場にいる人間はみな志も同じであろうから、行動を起こしても迷惑にはならないはずだ。

そこらの学校や職場で急に恋愛や性欲を正当なものとして振りかざすような理性のない連中よりもよっぽど道理的で真っ当である。

このような自分のありようが嫌いでないからこそ、恋愛結婚出産こそ正しい人間の営みだというツラをして、そうしない人を小馬鹿にする人間が許せないのだ。

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