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マイ・ブロークン・マリコ

 この映画を見るにあたって、まずわたしにこの映画を進めてくれた皆さん、どうもありがとう。あなたがたがわたしに勧めてくれる前から、わたしはこの映画を見る気でおりました。けれどもこの映画をあなたに見てほしいと、伝えてくれたことが私はとてもうれしかったのです。みなさん、どうもありがとう。


以下ネタバレを含みます。

もし気になる人は、都内では9日まで、下高井戸シネマで上映している。絶対いけ!





 ブラック企業で働くシイノは、父に虐待され彼氏に暴力を振るわれるたったひとりの親友(ダチ)、マリコの訃報を、仕事の昼休憩中の汚い中華料理屋でみる小さなテレビから流れてくるニュースで知る。途方に暮れるシイノだったが、はたと思いつき仕事の合間だというのに自宅へ戻り、包丁を鞄に入れて再び家を飛び出す。向かうのは、マリコの実家。出迎えてくれたのはくたびれてはいるものの優しい雰囲気の中年女性、もといマリコの父の再婚相手。上京したての苦労思い出しそう・・・休んできな、と、シイノを家に上げる。そこにはマリコの仏壇の前に座る、マリコの父の姿があり、たまらずシイノはマリコを奪い、逃走する。そしていつかマリコと話した、まりがおか岬を目指して弔いの旅を、とてつもないスピードで敢行する。旅の途中、シイノは何度もマリコを思い出す。マリコを失ったことで少しずつ、しかし急激に褪せていくマリコとの記憶を大切に思い出す。マイ・ブロークン・マリコはそんな物語だ。

 マリコは常に周りの人間から弱さを押し付けられて、そこから逃げようともしない、むしろ自分からそこへ戻ってしまう。シイノに言わせてみれば、“感覚がぶっ壊れている”少女だ。マリコはいつもぼんやりと自分というものの輪郭を持てないようで、自分がどうとかいうことは考えられないらしかった。中学の頃、シイノと花火をする約束に現れず、迎えに行ったシイノはドア越しにマリコを怒鳴り散らす父親の声を聞く。いてもたってもいられないシイノはドアを強く叩きながら泣きさけぶが、でてきたマリコはこう告げる。「シイちゃん、ごめん きょうむりになった・・・」違うよマリコ、そうじゃないでしょうが・・・!!!!と観客である私が思っていると、バタンとドアが閉じて玄関ライトに照らされて呆然と立ち尽くすシイノが映る。また、高校生のマリコが、シイノに実父に強姦されたことを告白したときは、力なく笑うマリコはこうつぶやく。「シイちゃんどうしよう、ママ、もう帰ってこないかもしんない・・・」マリコ!!!!!ちがうだろ!!!!!!そうじゃないだろう!!!!!マリコ・・・!!!!!そう、叫びだしたくなる。マリコにこの叫びは届かない。それはたとえ観客であるわたしではなく、シイノからの必死の訴えであっても。たとえシイノがフライパンを振り回して暴力をふるう彼氏を追い返しても、シイノの叫びはマリコに届かない。届けることすらかなわずにマリコは骨だけになってしまう。

 

 私は人間関係の構築において大変不器用なので、いつも、シイノのようにぶつかっていくことを選ばなければ、友人関係を保つことができない。ぶつかっていくことを許してくれる人しか、私が友達でいられない。だけど、私がこんなに心配していることをお前はじっさいどう思ってるんだ、と聞いたときに、「こんなに真剣に考えてくれてることがきもちいい」といった女を、いまだに許せないでいる。わたしとおんなたちの友情はたいていこうだ。私がおせっかいを焼く。それも真剣に、やりすぎなほどに、一生懸命、いつも相手を掬おうとかたすけたいとかなんとか思って、余計なことをしたと落ち込む。でも、もっと最悪なことになったとき後悔するより言い過ぎて嫌われるほうがましだと、結局いつも言い過ぎる。そんな私自身の不器用すぎる友への接し方がシイノとどうしようもなくリンクする。同時に、そんな風にぶつかっていくことで自分なりに友と添い遂げようとする私以外の女がこの世にいるということ自体を、わたしはとてもうれしく、そして誇らしく思えた。


 紆余曲折を経て、シイノは、念願のまりがおか岬にたどり着く。そこで、死んでいる、骨だけになったマリコに無性に腹が立ってきて、マリコをがけのほうに向け、そのがけから飛び降りようとする。それを道中なにかと世話を焼いてくれたまりがおかの町民、マキオに阻止されて、叫び暴れていると、二人の声以外の小さな叫びがきこえてくる「たすけて!」「たすけて!」と、ススキの奥から必死で制服姿の少女がこちらへ駆けてきて、その後をフルフェイスの男が追いかけてきている。その弱弱しくも必死にこちらへ助けを求めて走ってくる少女の姿が、シイノにはマリコと重なった。たまらずマリコの入った骨壺を振り上げ、シイノはフルフェイスの男を思いっきり殴った。そして、マリコの遺骨は宙へ舞い上がり、シイノとフルフェイスの男は二人とも崖下に落ちた。

 勇気を振り絞り、声を上げ痴漢から逃げた少女と、逃げることすらしなかったマリコの姿はなぜ重なるのか。劇中、マリコはどんな時もシイノに「たすけて」とは言っていなかった。それは作品の外側の部分でもきっとそうだったのだろうということが、前述したマリコの「そうじゃないだろう」と思わせてくる言葉からもわかる。シイノは、本当はこの少女のように、マリコが全力で、自分のほうに走って逃げてくれることを望んでいたのか。それとも、シイノにとってマリコは、いつもこの少女のように泣きながら走ってきているように見えていたのか。どちらにせよ、もう二度と、壊れてしまったマリコを助けることはできない。そして今助けを求めてきているのはマリコではない。それなのに、シイノはやはり、いてもたってもいられず、少女を助けるためになんの躊躇もなく、親友(ダチ)の骨壺を振り回して痴漢を撃退する。助けられた少女は警察にシイノ宛の手紙を託し、シイノは「親切なお姉さんへ」と綴られた自分あての手紙に照れくさそうに笑う。「DEAR シイちゃんへ」から始まるまるっこい字が並ぶ雑然としたマリコの書く手紙とは重ならない綺麗な字でつづられた手紙を受け取り、シイノは旅を終える。


 シイノが飛び降りようとする前、まりがおか岬でマリコとシイノが抱き合ってする会話の中で(シイノの頭、あるいは心の中でのマリコとの会話である)、シイノは「あんたの周りの奴らがこぞってあんたに自分の弱さを押し付けたんだよ」という。これは、シイノ自身もマリコに弱さを押し付けていたんじゃないかという、不安や恐れや後悔などとったもう取り返せない時間への問いかけが含まれていたように感じた。シイノは、何度もマリコをめんどうくさいと思っていた。彼氏ができると当日の予定を平気でドタキャンするし、連絡もよこさなくなるマリコ。ふたりともいい大人になっていたのだから、マリコが望んだように二人で暮らせばよかったのに、ふたりでまりがおか岬に行けばよかったのに、それをしなかった。どんなひどい目にあっても決して自分からは逃げようとせず、そんな自分に真剣に喚いたり怒ったりしてくれる自分を頼ってくるうっとうしくていとおしくて唯一の存在、マリコ。そしてそんなマリコを救えるのは自分しかいないという、シイノの中に潜むマリコへの依存とマリコの訃報であっという間に社会性を手放してしまう、実はマリコなしではたっていられなかった、シイノ自身の脆さがだんだん物語の展開とともにあらわになってきた。そういう弱さを、自分自身もマリコに押し付けていたのではないか、だから手紙も残さずに、一緒に死んでということもせずに、マリコは一人で逝ってしまったんじゃないか。そんなおそれが、シイノの中にマグマのように吹き上がってどうしようもない。死んだマリコにだから聞きたいことが山ほど出てくる。けれども死んだマリコは口をきかない。「死んでちゃわかんないだろ!」と泣きわめき、死人相手に虚勢を張ることしかできない。

 だから、最後の、ぽとりと落ちて気づくマリコからの手紙はたしかな救いだったなと、思わざるを得ない。思えばこの映画における「光」というのは不穏だった。マリコとシイノが喫茶店で落ちあい、シイノがマリコに「感覚ぶっ壊れてんじゃねえの!」とののしる場面では、マリコの顔の半分は白すぎる外の光に照らされて、もう半分は真っ暗で、見ているこっちには息をのむほど恐ろしかった。思えばあのマリコは、ほとんど壊れていたことを象徴する姿だったといえよう。マリコの部屋のベッド周りには、ぼんやりとした星形が連なった照明があって、自分の部屋に押しかけてくる彼氏とシイノがドア越しに戦っているというのに、その光に包まれてマリコはにいと笑うだけだった。彼氏が帰ったのか、二人ぼんやりとベッドの上で過ごした時も、その星はぼんやりとなににもならないたよりない明るさで登場した。マリコとシイノの回想は美しくもどこか陰鬱でもやのかかったような光をたたえていて、それが二人の、出てこられない二人だけの世界を思わせた。しかし最後の手紙のシーンでは、シイノが手紙を抱いて泣く方向から日が差して、手紙ははっきりと見えないので、マリコは光を抱いているような形になる。それがとても美しく、かすかな希望や安堵を胸に抱きとめているかのように、私には見えた。シイノがマリコの実家に乗り込まなければ、マリコの継母がおそらく「シイちゃん」の住所を知るすべはなかったので、この救いはマリコを失ったシイノがつかみ取った、マリコ亡き世界で生きていくための希望なのだと、私は思う。


 原作の粗削りな乱暴さと繊細さが同居する感じが非常に丁寧に映像化されていたし、紙の上では想像に過ぎなかったキャラクターの表情や空気がそこには確かに在った。特に、シイノを助け、「名乗るほどのものではござぁません・・・」と去っていくマキオが、実はおちゃめなかっこつけで、振り向くと思いっきり名前が見えている、というシーンに会場のおっさんたちが吹き出すという一幕もあったりして、映画化のおかげで、紙の原作から映画という体験へと、私の“マイ・ブロークン・マリコ”がはぐくまれていったのも素晴らしかった。そんな作品のパンフレットは制作陣の作品に対する愛情があふれていて最高だった。ふだんあまりパンフレットを購入しないのだが、台本が掲載されることはままあるのだろうか・・・。贅沢すぎて本当に1000円でいいのか不安になるので、せめて円盤化されたらそっちも購入しようと思っているところだ。

 本当は、私は映画を見ることを苦手としていて、基本的に冒頭しか集中できない。没入してないから、感動しても泣いたりできない。むしろ周りがすすり泣いているのが聞こえてきて、もっといい映画体験にしたいから意図的に泣いてみようなどと余計なことを考えてしまったりする。それなのに、この映画にはもう二度とないくらい没入した。二時間弱のあいだ、映画のこと以外は本当に何も考えられなかった。シイノの弔いの旅を、シイノとマリコの時間を、一秒でも見逃したくなかった。そう思わせる引力が原作にも、映画にもものすごくあった。

 

 全体的に情報が多すぎずも少なすぎずもしないのもとても良くて、突然道端で出会ったシイノになにかと世話を焼いてくれたマキオも、荒れた生活を送るマリコの父も、出でいって、出戻って、また出ていったマリコの母も、マリコを付け回す彼氏との間に何があったのかも、マリコからの最後の手紙に何が書いてあったのか、それが遺書なのかどうなのか、そういった気になることは全然明かされない。それどころか、二人の間にあった膨大な時間もこまごました出来事も、ほんの少ししか明かされない。原作ならたったの4話で、映画ならたったの1時間25分。だからわたしたちは、マリコがどんな人間なのか、結局シイノを通してからでしか知ることができないし、シイノのこともそれほどよくは知る由がない。その足りない部分や取りこぼされている部分たちが、この疾走感を生み、マリコの記憶がどんどん遠くなっていくシイノの焦燥を、追体験させてくれていると思った。


豪華なキャスト陣にも言及したい。まずもって、吉田羊の演技にとても感動した。シイノが遺骨をもって去っていったあと、マリコの父に向って「あんたが全部悪いんじゃないのぉ!あんたが娘に変なことするからぁ!」と怒りをぶつけるシーン。吉田羊といえば、わたしのイメージでは謎の多い色気の漂う仕事ができて男勝りなところがあって今夜抱けそうであっさり帰ってしまうそんな都会的な女性のイメージ。Scoop!やHEROのイメージだ。インターホンが鳴りひょこっと顔を出したタムラキョウコさんは、まあ少しくたびれたおばさん、けれどもやはり吉田羊と思ったのだったが、あの、マリコの父の背中をバシバシ叩きながら泣き叫ぶタムラキョウコもとい吉田羊の声色は完全に、うっかりだめ男と結婚してしまう、中背中肉の、おひとよしでちょっと情けない“オバチャン”の声だった。前述したイメージの人が演じたとは思えない、声の演技が素晴らしい俳優なのだと思い知った。

それから、冒頭アップになるマリコもとい奈緒のあまったるうい顔ときたら!あの絶妙にあか抜けないあどけなさと弱弱しさとだめさが、あの笑顔で全部わからされる。無骨でハードボイルドなシイノとなんで一緒にいるのかわからないような、なんかわかってしまうような。奈緒は美しい女優であることは前提にして、マリコはあれ以上かわいくても美しくてもだめで、逆にあれ以上ぶさいくでもだめ。という絶妙な塩梅の、仕草、表情、しゃべりなのだ。こういう女って本当にたくさんいて、結構女からはどんくさいぶりっ子だと思われて嫌われるし、かといって男にモテるわけでもなくむしろあそこまで危ういとぎゃくにまともな男はマリコを選ばない。だからどうしようもない父とそのような男と、シイノくらいしか周りにいないってことが、あの笑顔ににじんでいて素晴らしい。

 マキオは、原作だともっと不審でよくわからない、シイノよりもマキオのほうが野宿してそうな、明日から急に姿を現さなくなりそうな地域猫のような男に思えたが、窪田正孝の好演によって、マキオの案外普通の青年ぽさというか、やさしさやあたたかみやおちゃめな一面が彩られていた。私のなかで窪田正孝といえば、「アンナチュラル」での、女上司たちに振り回されるカワイイ年下くんのイメージと、「Nのために」「闇金ウシジマくん」といったシリアスな作品もこなす二面性が、マキオというキャラクターに奥行きを持たせているように感じた。

 昨年久しぶりにはまったテレビドラマが「ハコヅメ」で、主演であった永野芽郁の演技に惹きつけられ、そのころ情報を知ったマイ・ブロークン・マリコも絶対見ようと思っていた。こんなに素晴らしい映画であるとはまだ知らなかったわけだが、この素晴らしい作品にであうきっかけをくれた永野芽郁という女優に感謝し、これからもかげながら彼女の演技を愛していきたいと思う。今後鑑賞予定の「母性」も非常に楽しみだ。


 時に女の同士の友情は希薄で、上っ面で、建前で、計算や妥協をないまぜにした見掛け倒しのものと思われがちだし、ともすれば女自身でもそんな風に卑下してしまうことがある。人との結びつきというものに、例えば愛や友情や優しさといったものに「本物の」ということはないと思っていて、だからマリコとシイノという二人の友情の在り方が本物の女同士の友情なんだ、とも思わない。ただ、いろんな女がいて、人間がいて、人生があると、ときどき、マリコのような女や、シイノのような女が現れてその先長く、勝手に人生に登場し続けられたりすることがある。ふたりとも、フィクションでなく、割とよくいるだれかに似ていて、こんなに壮絶でなかったとしても、家族にはなれないし、ならないのに、うっとうしくて腐れ縁と切り捨てるにはいとおしい人間関係が割と構築されたりする。この作品ほどに駆け抜けていかなかったとしても、いびつで不器用で壊れてしまったとしても女の友人同士で生まれる愛や思いやりや依存や憎しみやしがらみでできたふたりだけの世界というのはわりとどこにでもあって、他人のそれを見せつけられるのは、非常に結構なことだった。マリコはもう戻ってこない。マリコが壊れてしまうことは、シイノにもマリコにも、きっと止めようがなかった。でも勝手にシイノの人生に登場したマリコは、壊れるまでシイノの人生に居座り続けたし、ときに脅したりした。そしてマリコの人生に勝手に登場したシイノは、勝手にマリコを助けようとあがき続けた。マリコは壊れてシイノは重力に逆らえないが、それでも「大丈夫」になる。そんな双方自分勝手な、女の人間関係のわずらわしくてでもいとおしさを垣間見た。わたしはこれからきっと、何度もだいじな女友達にうんざりさせられるだろうし、その度この映画を、作品を思い出すだろう。これからあとうまくいけば60年は死ねなさそうだが、10年後、20年後私はマリコとシイノをどう思うか、今から楽しみができてしまったのであった。

 



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