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ぐだぐだな毎日

これからの日々のコンセプトを考えていた。

「くだらない毎日」にしようと思った。よく心情を表していると思う。

 一方でその表現は現在の環境に対して批判的な態度を取ることになるかと思う。そういう意図はないし避けたい。誤解が生じると思う。

 「楽しい毎日」ならどうだろうか。楽しそうに見えないと言われたらそこまでな気がする。

 一方で万人に高評価されるのは厳しいので自分が納得できれば良いかとも思う。

 最初に戻ってなぜ「くだらない毎日」なのか、具体で説明できないかもしれない。くだらなくも意義があるわけでもないニュートラル(中立的)な状況という結論が出る気がする。

 七年ほど前に入院していた頃、他の入院患者に何色に見えるか聞いてみたことがある。「S・Kは無色透明だ」とのことだった。それから現在に至るまで永世中立的な日々を送っている。とくに意図や打算もなく、自分の周りが平和であればよい。ゆえにそもそもコンセプトには向かない気がする。

 毎日が平和ゆえ憂いがない。とくに言いたい事もない。あえて言えば退屈と思う。現状でもよい。主観的充実はクリアしている。あとは客観的充実かと思う。客観に堪えうる立場を取るためには平均の壁を越える必要がある気がする。立場には実力(学歴や職歴など)範囲と偶然(実家の経済力や生まれた場所など)範囲があると思う。偶然範囲で調子に乗るのは、慢心かと思われる。実際のところ実力範囲でしか立場は取り得ないのだろう。

 現状のところ客観に対して期待もない。前述の仕組み(実力と偶然)に二十代半ばになるまで気づいていなかった。とくに熱量もなく、気づけば同じような毎日を送っている。友人と通話してたまに外出する。とくに憂いや問題も起きない。あまりに平和ゆえ眠くなる。

 誰かと会う予定がキャンセルになったら美術館へ行こうかな。知人が集合場所に遅れるようなら本が読める、など。どう転んでも良い状況をつくれると良いなと思った。知人に「ダブルプリパレーション」と造語してもらった。「二重の計画」というような意味合いになるらしい。なんかかっこいいなと思う。八年ほど前に体調を悪化させたときにどう転んでも厳しい状況だったという認識がある。手帳も持っておらず就職しなければ、通う先もない。友人もいなかった。どう転んでも詰んでいた。現状の日々は多分にダブルプリパレーションによって構築されている。すばらしい日々を送っていると思う。

 荘子の言葉に逍遥游(しょうようゆう)というものがある。目的もないけれど世の中と関わり時々を楽しむというような言葉だと解釈している。良いんじゃないかと思う。自分なりに言い換えると「ぐだぐだな毎日」かと思う。十代の頃は安易に、楽しいと「思える」時が来るだろうと考えていたけれど、上機嫌であるためには技術が必要で、「楽しむ」という能動性がいる気がする。そのためには「真剣さ」と失敗しても朗らかであることができる「ご機嫌さ」があると良いのだろう。二十代になってからは「不真面目さ」を基軸に過ごしていたので方向を変えるのは面倒と思う。

 また真剣であると茶化されるリスクがあると思う。ならば表面上は不真面目で内実は真剣、傍からみれば何を考えているのかわからないけれど内心はご機嫌ということで、良い気がする。

利用者S・K

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