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それでも美味しくなってくれるという事

この夏僕はコロナになった。その前にはインフルエンザも初めてなったし、娘からウィルス性の胃腸炎ももらった。今年は色々なった。
全てひどく辛かったのだが何故か「よしっ!」と拳を握る自分がいる。
その事実よりも得るものが多かったからだろうか?
昨年より始めた梅仕事が始まる時期にコロナ生活もスタートした。
梅雨の終わりの時期に下準備をして土用の丑の日を目指して、三段にジップロック分けし重ねた梅と他なんちゃらを毎日揉み、段を変えてまた重ねて冷蔵庫に戻す日々。この料理教室森田式の梅干しは毎日梅と関わる。
揉む、摩る、香る、押す、引く、見る。一つ一つの行為が自分の中の沢山の記憶と現在を結んでいく。いい悪いではなくランダムに。
傷口に塩がしみる。
初めて関わった昨年の梅仕事は辛かった。心のヒダが柔らかいものだとしたら、そこに釣り針が刺さるような感覚。しかし不思議と痛みは感じない。
しかも幾つも刺さる。今向いている前方と携えている向きから、針の引っかかった方向へ一瞬で向き直されて向き合わされる。いや、誰にも頼まれていないのだから自ら向き合いに行っているのだろうか。無痛でその行為が繰り返されるのでより辛い。翻弄される自分がまだ理解しようと争う。わかった口を聞く。小さく切り刻んでまとまりやすい大きさの塊を袋に入れて見えないようにしまおうとする。ナマモノなのに。辛い。自分をどう見せたいのだろうか?と。いやいやなかなかに辛い。
先生に何を言われてもわからない事がとにかくずっと恥ずかしかった。
いやいや、もう辛いと言うのが辛い。
しかし私の理解はさておき、梅の香りは素晴らしかった。僕を十二分に甘やかし、あまりある香り。鼻の穴の奥の仕組みを詳しくは知らないがその奥に木を編んで作った程よいカゴが置いてあって、太陽の日差しをめいいっぱいに含んだお布団をぎゅうぎゅうに詰めて、ふわっとさせてある。
そこに漂う香り。お日様と果物の優しい香り。しあわせの香り。
釣り針とお布団。ナマモノと太陽。ああ自分は一体どうして震えながら笑っているのだろう?振動が止まらない。灼熱の一ヶ月と少し、僕は混乱と呼ぶに相応しい京都一年目の夏を満喫した。
体を包む湿気に、洗濯物を抱き抱えて乾かさない低気圧に、エアコンは
除湿、扇風機は上下より狙い、部屋の中に自己流の空気の海流を作り楽しんでいた梅雨が終わる気配と共に先生の梅レッスンの告知が流れてくる。膝に手を当てゆっくりと立ち上がる。やはり何故だか口元では小さく「よしっ」と呟いている。しかしこの年はこのまま立ち上がれなかった。世界が歪んだ。体から沢山の機能をメンテナンスだかなんだか知らないがお休みしますと連絡が来る。39度4分。数日経っても常に38度の私。気休めに買った検査薬が見事に陽性。コロナらしい。風邪で高熱を出すことには慣れていたのでとにかく寝て休むという工程に抵抗はないのだがコロナはなんだか気持ちが悪い。色々な症状を沢山の場所で見聞きしていたが僕からは臭覚だけが抜き取られた。何を嗅いでも匂いがしない。自分の大便ですら作りもののように感じるほどの不気味さである。いやいや待てよ、梅干しはどうなる?匂いなし?それでは困る。熱にうなされているのか、昨年の釣り針の辛さに怯えているのかわからない僕の上を、発熱は一日、なんの後遺症もなし、毎日プールに入りたいですと懇願しながら娘がまたいで通り過ぎて行く。
風邪やインフルエンザは体が熱を出してやっつけてくれるイメージがある。このスタートラインからゴールまで頑張って走れば治る、という短距離走の感じ。しかしコロナはなん度もなん度もスタートから短い距離を走る。長距離走のようでもあるが、何度走ってもゴールにはならない、はい終わりと言ってくれない。審判がいつまでももう一度もう一度と短い距離を走らせる感じ。しつこい。そんな特殊な辛さの中、僕は熱がどうにか楽になる体の向きを探して家中の横になれる場所へ移動しては横になってみる。そんな移動の最中、そうだ梅干しだ!と思い出す。梅を干すには中々の工程がある。その工程を守らなければ、こなさなければ森田式の梅干しを美味しく作る事はできない、全てやらなければならない、あれ?これはこうで、あれはこうでいいんだっけ?並べるんだっけ?回すんだっけ?ぎゃああああ。これでは美味しくならない!!

慌てている私に誰かが言ってくる。
「梅は、こうあらねばならないが無くても美味しくなってくれます。」
背骨あたりからボソボソと聞こえてくる。考えを持たない体という塊を動かしているのは内部にある私ではなく、外部にある私だった気がする。この時ばかりは。ほんとか?まあ突き止める元気はないし、料理教室森田で言うAだったかBだったかCだったかDで先生が言ってたか?まあ今はこの流れに任せよう。梅はきっと美味しくなってくれる。
実際全く匂いはないが、なんだかあのお日様と果物の香りを感じる気がする。いやいやしないか。でもこうやって目を閉じてみるとほら見えないか?
鼻の中に幾つも通る薄暗い香りの通り道の向こうの向こうの地平の向こうに放射状に広がるあの梅の香り、その光が。香るとは違うのかもしれないが確かにイメージできる香りがある。これならいける。何かに任せよう。体温も庭の温度もなんだか気にならない。とは言えない。でもこれならやれる。
ボロボロの見た目とは裏腹に「できる」という確信がエネルギーになる。お?俺のカラダ結構動くじゃん?やるじゃんオレ。
お日様にあててなん度目かの旋回の時間。ひつ粒一粒に思いをというよりも「できる」「美味しくはなってくれる」「かすかに香る」の3点しか私にはない。旋回しほぐすたびに梅のおへそから果肉が少し溢れる。そこから香りが広がる、気がする。朦朧ともいう自分の横にいつの間にか自分用の椅子を拵え、自宅待機中の娘がその果肉を一粒ずつちゅうちゅう吸っては並べ直す。旋回する、ちゅうちゅうする、旋回する、ちゅうちゅうする。
森田式にない新たな項目を産んだ我々。それでも梅ちゃんは美味しくなってくれるはずという信頼。くたびれたのでみんなでお昼寝タイム。暑さはどんどん盛り上がって行く。
今年も梅干しが出来上がりました。色々あって5キロ分。本当に色々あった。なんだか色々もらいました。2年目だからもらえた事と括りかけたが、まあ知らんし。いい梅干しができた。味わい深い。これがまた続いて行く幸せ。来年はあそこをああして、こうしよう。
私にできた。それでも美味しくなってくれた。かすかに香った。
コロナになって匂いはまだ全部戻ってきてはいないがそんなの知らんし。
私の理解はさておいたまま、来年の香りに出会に行く一歩をまた踏み出した。

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