「ごちそうさま」を言うために

ざわわ、ざわわ、ざわわ。1マス進む。


どうにも最近落ち着いていられない。
おそらく明日に控えた(自分の中では)大きなイベントのせいだろう。
言ってしまえば同窓会のような出来事だ。僕はその日のためにとっておいた有給休暇のカードを1枚切ったし、主催には程遠いけれどちょっとした(実るかはわからない)下ごしらえもした。入ってきた参加者情報も、けっこうな威力で(良い意味でも悪い意味でも)僕の心を揺らがせている。自分の中でも、かなり大きく、心的・身体的なリソースを割くタイプのイベントであるのには違いない。

大きな果実を前にすると緊張する。そこまでに至る文脈が濃ければ濃いほど、内心の動揺はひとしおだ。今目の前にあるのは、僕にとって決して忘れることはできない、至上の美味だったもの。それが目の前に再び現れようとしている。ちゃんと食することができるか不安だし、また味わってしまったら、薬物に溺れる中毒者の如く、再びあいまみえる時を渇望し続ける毎日の訪れも見えてくる。少なくとも今ここにいる僕は、明日という日をひたすら奉り、希望とすることで日々をしのいできたのだから。

見苦しいことに、僕は恐怖しているのだ。待ちに待った好ましい人々との邂逅に、幾度となく怯えた喪失の可能性を勝手に見出して、うずくまって震えている。そう、出会わなければ失うこともない。ひたすら閉ざせば、繋がりが消えたという実感さえ抱くことなく、頭の中にあるかつてあった理想郷に埋没していられるのだ。

けれど、知ってしまったのだ。現実で人と関わることの楽しさを。自分ではない他の人と、会話というセッションをすることの幸福を。阿呆みたいに笑って、馬鹿みたいに喋り続けて終電を逃し続けた愚かな日々は、ひどく狭い世界ではあったけれど、僕にとっては世界の中心だったのだ。

だからこそ失うことに怯える。築き上げたものが崩壊してしまうことが、何よりも恐ろしい。そのきっかけが僕のしくじった一手になることが怖くて、箸を持つ手が震えてしまうのだけれど、実際には(僕を含めた)皆が少しずつ変わっていって、いつの間にか朽ちてしまうものだってあるのだろう。どんなに保存料を詰め込んでも、賞味期限はどこかにあるのだ。

「次に会ったときに1年ぶりでも10年ぶりでも、『オッ、久しぶり。元気してたか?』と笑顔で言える関係」が僕の中にある理想の関係性だ。
そう掲げながらも、定期的な生存報告を欲するという矛盾を抱えている。それは僕がいくつになっても寂しがりで、同時に受動的な人間であることに起因するのだろう。今回だって(諸々の事情があったけれど)とにかく主体的な行動に欠けていた。自分で作った環境に沈殿しているのに、口だけはパクパクと与えられるものを求めている。そんな自分が、一番みっともない姿ををしているのも、わかっているのだ。わかっているのだ……。

だからこそ、僕は箸を伸ばす。用意された食事を米粒ひとつまで咀嚼して「ごちそうさま、美味しかったよ」と言うのがマナーだ。そして食後には次は僕が作ろうか、と提案しよう。僕みたいな特に人を惹きつける異常性も才能もない人間は、奢り奢られ、作り作られやっていくのが一番良いのだろう。
そうやって、関係性の維持をしていくのだ。1年ぶりでも、10年ぶりでも、『久しぶり』と笑えるくらいに元気でなくてはならない。余裕を持たなければならない。生きていかなければならない。

久しぶりに会える人がいる。電子の媒体を挟まず、生きている姿を見ることができる。僕はぶきっちょで会話も下手だから、明日の夜中には大反省大会が繰り広げられているかもしれないけれど……それでも、嬉しいことには変わりない。とても幸せなことなのだ。

今日は早く寝る努力をしようと思う。良いコンディションで明日を迎えたいからだ。未知の未来に怯えるなら、せめて暖かい布団の中で震えよう。どうせ連絡の来ないスマートフォンは放り投げて、焚火の音でも聞く。noteだってもうこの時間に更新だ。レジンもほどほどに、目覚まし時計をセットして、ゆったりと風呂に浸かって、服薬して、明日持っていく差し入れの準備をしよう。

皆の『いま』がどうなっているかわからないし、吉報だけではないだろう。楽しい時間が終わり、訪れる別れにはまた悲しみが満ちるに違いない。
それでも、生きて会える喜びをしっかりと噛みしめ嚥下しよう。箸は震えてしまうかもしれないけれど、それでも伸ばし続けるのだ。

やっていこう。何事も、やっていくしかない。
明日起きて、『久しぶり』と笑顔で言う準備をしよう。
それだけが僕にできることなのだから。

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