「先生のいない科学講座」の可能性

私も30歳に近づいており、子供の頃の経験と現在というものの齟齬を少しずつ感じることが増えてきた。とはいえ、科学教室の典型的パターンを想像すると、やはり「先生」にあたる人がいて、その人が何か決められたテーマについての科学の知見を教え、受講者はその人の教える知識を受け取るというスタイルが通常であり、講師も生徒も特に断りがない限りは、その前提でそのイベントに来るし、その前提でイベントが進むのではないだろうか。

ただ、このスタイルとは別の方向性を志向するケースも少なからずある。例えば、答えをできるだけ教えることなしに、実験等を使って「参加者側が答えを探していく」ようなスタイルや、「なんでも質問コーナー」というような、テーマ設定を聴衆側主導にするといった工夫だろう。これらは、オーソドックスな科学教室のスタイルからは何かしらの側面で異なることをしている。

ただ、何かしら異なることをする際には、それを丁寧に宣言する必要がある。「なんでも質問コーナー」というのは名詞を使ってテーマ設定を受講者側に持たせることを宣言しているし、実験で答えを探させるスタイルであれば、おそらく会の冒頭で先生に当たる人が「あなたたちで実験を行い、この問題の答えについて考えてください」というようなガイドが丁寧に入るだろう。

丁寧に宣言を行えば基本スタイルをどんな方向でも破れるのだろうか。例えば、「先生」がいないとか、先生はいるんだけど授業をするのは受講者だけとか、である。授業をするのは受講者だけ、というのは、高校生の研究発表会みたいなものを連想すると、ある程度ありうる気はする。実際、評価をする先生は立派な先生だが、当日の授業は高校生というのは可能だ。事前に受講者側が相当な準備を要するもので、当然ながら限定的なスタイルではあるが、そのような準備の経験を教育に利用できるなど、目的がしっかりとあって、一定の効果を期待されて実践されている。

先生がいないというスタイルについてはあまり印象がない。だが、本当にできないのだろうか?科学者は研究をするときには研究の答えを最初から知っているわけでは当然ない。当然「予想」はしているけれども、予想は通常、多かれ少なかれ外れるものである。科学で得られた知識を共有する上での効率としては「先生」は便利だが、科学の「営み」を一般に共有する意味では、少なくとも研究の成果としてわかったことを教える「先生」は無用の長物だ。

と理屈の上では私は思っているのだが、先生がいないスタイルはどうも現実にはない気がする。だから先生不在を歯痒く思ってしまう。そして、それは多くの人がそうなのではないだろうか。先生に当たる人が、受講者の期待するレベルの役をしてくれないと、聴衆から不評が出ることも少なくない。運営関係者はやっぱりドギマギするのが普通なんじゃないだろうか。そういう理解は私の勘違いなのか。勘違いであるとすれば、世の中は私を置いて随分と進んでくれているもので、とても嬉しい限りである。だが、仮にそうだとしても、ある程度しっかりとした理念と、筋の通った運営がないとトラブルや「期待はずれ」「がっかり」を生み出してしまうとおもう。

なぜ先生が研究の「成果」について、また、ほぼ一方的に、発信するスタイルが基本なのか。おそらく、知識を持っている「先生」と持っていない「受講者」がいて、そこでの知識のやりとりは9割以上一方的に先生が受講者に知識を流すということにならざるを得ないからだろう。また、研究の「営み」よりは、成果として得られた知識を受講者側が欲しているのであろう。需給バランスと、知識というものが持っているある種の性質に起因した自然な結果なのだろう。これ自体に異論はない。

ただ、確かにそうだと思うのだけれども、果たして知識だけが需要があるのか??例えば、方法論や物事への向き合い方などはそれを知っていれば広い範囲に応用できる可能性があって、結果だけ学ぶよりも得られるものを大きくできる可能性がある。あるいは、そもそもそのような技術よりも、問題意識の共有だけでも実は価値があるのではないか。

科学の問題はおおよそスケールが大きい。そもそも問題を提起するだけで論文が書かれることもあるし、その解決に数百年かかることも普通にある。解決したと思っていたものがひっくり返されることもある。そうなると論文で書かれているものは、問題の提起や、解決法の提案、といった非常に小さな部分単独のことも少なくない。そもそも、問題意識を持っていても、誰かに表明しないと自分の中で曖昧な認識をしていることに気が付けなかったり、気づいていたとしても、別の視点が入ることでより洗練される。それゆえ、答えは出さないけど、議論はする。

答えを無理に用意しようとすると先生が出てくるが、用意しなくていいのであれば先生はいらない。

ここまで先生を排除しようという話をする理由の一つは、科学教室で歯痒い問題が一番起きるのは先生という役回りに他ならないこともある。実際、受講者の質問が予期しない方向に広がってしまったらなかなかカバーするのは難しく、そもそも知識を綺麗にまとめてスムーズに発表するのは大変なことでもある。先生役にはそれができることが求められてしまう以上、相当な知識や経験量を保ちつつ、そういった知識を高い運用力で使いこなし、それでもなお、カバーできない部分には謙虚になって「わかりません」と素直にいうことも求められるし、間違ってしまっていると判明するとやはり評価が下がってしまうので、発言に対する責任とリスクがとても大きい。これらを意識したら萎縮することにもなりかねない。こんな役回りはなくせるならなくすにこしたことはない。あり続けるとしても、責任範囲を積極的に制限していくやり方を定着させていったほうが絶対にいい。

にもかかわらず、続いている理由の一つには、オーソドックスなスタイルの「先生」の万能感には優越感もあり、自己満足や自己肯定を生み出したりもしてしまうもので、「やりたがり」も生じてしまうし、できている人を見ればその人への「憧れ」もまた生み出してしまうようなところもあるとおもう。そのような関係者の気持ちの上での駆け引きは成り行き任せでは止められない。ならばなおさら、責任範囲の明示や、先生役の仕事目的を明示し、全員での合意を取っておきたい。

先生のいない科学コミュニケーションや、「先生役」の仕事を制限し、一方的にならないようにバランスをとるという方向性は模索するべきなのではないか。講師、参加者(必要ならば他の運営関係者)でどのような合意をすればよいのか、特に、先生をなくしたり、仕事を制限することで、参加者や運営関係者がどのような利益不利益を被るのかを十分考察していけば、今までの「科学教室」とは異なる何かを作れるのではないだろうか。

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