コロナ禍における飲食店の苦境を見て

元飲食業に従事した農業者の小さな決意


皆さま、こんにちは。

年末年始の大寒波の豪雪も嘘のように、ここ数日は晴れ間が見えることが多く、降雪0mmという日が続き、その引き換えの"放射冷却"による零下15℃を下回る凍てつく朝。

ダイヤモンドダストが煌めく外を眺め、インスタントコーヒーにシナモンとオリゴ糖を多めに投入、静かな午前のひと時を過ごしながら、春以降の取り組みについて、多くの農業者が思いを馳せる事を想像する。

10年と少し前、農業「界」に入り、農業者同士の語らいや、行政、指導普及員との談話の中で、国などの農業政策による助成の手厚さに「農本主義の名残りなのか」とまず驚いたの。

多分にもれず、筆者もそれらの助成により、まだ経営感覚が稚拙で未熟、営農技術も乏しい頃から、それらの「保護」を受け、助けられ、少しずつ、農業生産者としての技術、それ以外の気概や心意気、地域産業の将来を担い、いずれ牽引して行きたいと強く感じるようになったように思う。

新規就農補助事業や、経営支援事業で、1/3助成、半額助成など、導入せんとする農業機器の費用感が麻痺してしまいそうな中、助成ありきで機器を選定し、時に大先輩から「金をもらう算段ばかりするな」と、当時は見当違いな指摘と小さく憤りつつ、数年後、その大先輩の収量を超え、部会の中でも多少は存在感を自分なりに感じられるようになった。

今となっては大先輩の指摘も理解し、納得出来るし、「地域産業」という日本の農業の大部分がそうであろう構造を考えるに、元々長らく勤めて来た飲食業界との関わりについてもコロナ禍移行、改めてよく考えるようになった。

それは農業と飲食業の橋渡しとして官民上げて叫ばれてきた「6次産業化」についてで、自身が以前曖昧な取り組みで一度それに失敗し、農業のみに注力する他なくなった身として、筆者なりに思う事についてタッチ、フリックの進むまま綴ってみようと思う。

飲食店に比べ、農業は「農家です」と言われても実態が見えづらい。店頭で店主の作ったパンを買ったりするような感覚で個人が直接生産者から買う方法が限られている事が一つ。

大規模農業者であっても、多くの場合が個人経営者であり、株式会社体はまだまだ少ないのではないか。

市場の出荷物をどこまで捌き切れるかというその力次第で、生産者が出荷した作物の価格は大きく乱高下し、消費者とのマッチングがうまく噛み合わない事が往々にして起こっているのがこれまでの農業界で、そんな中、ネット上でのB to Cの青果取引が盛んになり、中には家庭菜園レベルのC to Cのような出品内容も目にする事が増えてきた。

筆者も就農当初、とにかく消費者と繋がる事を大事にしたい、と野菜販売に特化したウェブショップを出来るだけ費用を掛けずに企画した。

身内や関東での知人をメインに、口コミで広がればいいと取り組んだものの、農業の真似事を始めたばかりの一個人に、育てられる生産量(品目)と、包装して、梱包、発送までの業務を利用者の都合に合わせたスケジュールで出荷して、それらを日常的にこなすだけのスキルもなく、配送途中での傷みや、時期により期待に応えられるクオリティを保てず、そのムラが生じたりと、課題ばかりを残して、1年で頓挫してしまった。

ただ、知己は残ったので、将来的に必ず改めて取り組む計画ではある。
今は、販売手法ではなく、年々様変わりする気候変動に負けないだけの技術獲得と、規模拡大を課題としている。

この点も飲食店経営を目指していた就農前とは大きく異なる思考だ。
飲食店であれば、規模拡大は目指さず、パン職人あるいは料理人として、小さなお店を維持できれば良いというビジョンだったろう。

しかし、農業者の立場としては、より大きな関わりでの飲食業界との橋渡し、懸け橋構築を思い描いてきた。
それは、そう遠くない時期に取り組みを始められる考えでもあった。

但し、コロナ禍が起こらなかったら、である。


コロナ禍によって、生活様式、社会活動が大きく変容した。これは血気溢れる貪欲で鋭敏な経営感覚を持つ実業家であれば、苦境でさえも変化をチャンスと捉えたかもしれない。
しかし、一個人のイノベーションを期待するにはあまりにも大きな人災であると筆者は感じる。

日々、常軌を逸した個人攻撃にも近い名指しの飲食業界への批判、バッシングが起こり、一番酷い時期には閣僚から、自粛要請に協力しない店への融資を止めろというような発言さえ起きた。

今のところ、ワクチン接種による集団免疫を果たせてきている面が大きく、長く我慢した都心部の人達への感謝は尽きないが、その一方で、体調などからワクチン接種出来ない人への誹謗中傷も有名人から発せられたりした。

大手と中小零細・個人店の違いなく、飲食業界全体が大きなダメージを負った。観光業も同じである。

大きな話になってしまうが、人類に牙を剥くのは一つの病気のみではない。

センセーショナルな報道もあって、実態以上の恐怖を撒き散らしている感がとても強い。

そういう事を踏まえながら、「この先」の飲食業のあり方、あるべき姿についても、元飲食業界従事者として、改めて関わり方を含め考えるところである。

長くなったので、触りだけになってしまうが、、

農業者は元々百姓と呼ばれた。
諸説あるようだが、一般的な俗説的解釈を素直にするならば、100の作業を行い、複数の業務を行う、地域でも器用な存在であったという百姓達。

時代が移り変わり、縦割り社会と呼ばれるようになり、分業をして効率化を進める中で、失われてしまった視点を、突破的に飲食業においても取り組んで行ければ、と思う。

筆者の就農当初、実は農業者以上に飲食業界の人たちと多く会った。LINEやSNSが成熟する前の話だが、電話を掛け、メールを送り、面会の時間を割いてもらい、顔を繋いだ。

当時は「自分の作る野菜を〜」という名目がメインであったが、なんとか都心部の飲食店の人たちに、自分が感じたような「この原料である野菜の成り立ちをもっと知りたいな」という欲求を従業員達にも感じてもらえる機会を設けたいというのが朧げながらあった。

東京の飲食店の店長達に、拙い草だらけの畑に来てもらった事は良い思い出になったし、なにがしかの経験をしてもらったと思うが、次に繋がらなかった。

いざ、自分の手がけた野菜を使ってもらう、となっても納品方法や支払いスパン、口座開設など、取引手続きを確立出来ず、第三者企業の取引サイトへの登録などが煩雑で馴染まなかった事もある。月に一回程度鳴る見ず知らずの九州などの広告代理店と称する営業からの不躾な広告依頼の電話などに辟易した先入観もあった。
今はきっと違うだろう。
より、垣根を越えて関わりやすく、また関わるべき関係にあると思う。

食堂であれば、仕込みの時間、営業時間外の作業がある。手作業に勝るものはないと筆者自身もすごく感じるが、ホリエモンさんが、寿司職人の独立するまでの長すぎるとも言える修行のあり様について批判していた内容が有名だが、そこで言われていたのは、業界体質の改善を促す趣旨だったと筆者は受け取った。

丁寧な仕込みも付加価値であるが、時間もまた価値であり、生まれた時間で別の付加価値を乗せることも新たな価値である。

例えば仕込み作業の一部を機械化するなどはとうに行われていることではあるが、あるいは生産者の加工技術獲得であれば、まだ遅れていると感じるし、それを推進し、生産者と飲食店のダイレクトマッチングを進め、いわゆる地産地消をより消費者に感じられる形を伝えるべきで、その仕組み作りが必要だと考える。

農政の掲げるテーマの中に輸出について目にする事が多くなってきたが、今はそうではなく、国内消費の中でも外食産業への助け船を出す政策を期待したいと、思うまま、見直しや訂正もせず、珍しく勢いで投稿する事にしたものである。

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