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「今、何をやっとる?」名古屋ゼロ次元岩田信市

名古屋<ゼロ次元>の岩田信市さんが先月(2017.08)亡くなったことを知った。

謹んで哀悼の意を…と、言ったところで、岩田さんは、こいつは何を言ってるんだかと、あの大きな体のてっぺんにのっかっていたにこやかな笑顔で、そんなことよりも、芸術っていうのは、人間が人間に会った時のスパークだとわしは思うとるよと名古屋弁で即座に新しい会話を始めることだろう。

あのでかい体から発せられた言葉は、ある時は大きくとどろき周りを震撼させ、ある時は異界から来てしまった大天狗の人目もはばからない嘆きのようにも聞こえた。目の前の人に話しかけながらも、もっと遠くへ吠えているような響きがいつもあった。

岩田さんの作品や仕事についての評価や批評はこれからも続くだろうが、僕としては、「岩田信市」という存在について、いろいろと思いを巡らし考えることの方が多そうな気がする。

それは、やはり、あの大きな身体が天に向かって開かれてゆくときの雄大さ、背を幾分かまるめながら恥ずかしそうにいたたまれなさそうに走ってゆくときの切なさが焼き付いているからだろうとも思う。

また、「岩田信市」がいたからこそ出来した出来事が、失礼ながら岩田さんの作品以上に大きかった。

ゼロ次元然り、ロック歌舞伎然り・・・もちろん岩田さんは主催者であり、プロデューサーでもあるのだが、これらの出来事の現場では、岩田さんは、夜の灯台のように辺りを照らし、状況を知らしめ方向づける役割を担っていたのではなかっただろうか。

「岩田信市は、天才である。」というのは、生涯の盟友の加藤好弘がよく口にしていた言葉だが、天才云々というよりは、岩田信市に出会った加藤が、岩田信市の中に加藤自身ではとてもたどり着けない存在を見つけ、驚嘆し発した言葉を繰り返したものであろう。

岩田さんは、POPカルチャーを真摯に考え試行した、日本では数少ないアーチストのひとりではないだろうか。

ジャスパー・ジョーンズの「FLAG」やアンディ・ウォホールのキャンベル缶、マリリン・モンローを観てしまったときに受けた衝撃をこの日本でどう展開できるのかを生涯考え試行していたように見える。

後半生に情熱を注いだロック歌舞伎は、岩田さんの日本版POPカルチャーへのひとつの応答だったことは、だれもが認めるところだろうが、泥臭い大衆芸能にある殺気を掬い上げエロス表現しようとするところは60年代のゼロ次元儀式からの変わらない方向だった。

まだ、岩田さんを語ることばが見つからないままだ。岩田さんのあのぶっきらぼうな言葉かけが聞こえてこないからか。

岩田信市オーラル・ヒストリー 2015年8月29日
http://www.oralarthistory.org/archives/iwata_shinichi/interview_02.php


[追記]
上記のオーラルヒストリーは、盟友の加藤好弘氏が「かたりの芸」に徹しているのとは対照的に、おおらかな語り口で常にいま現在から未来を志向していた岩田さんの姿勢が如実にあらわれていていかにも好ましい。
1973年の「名古屋市長選出馬」は、秋山裕徳太子さんの都知事選出馬に先駆けるイベントだったが、その動機についてもきちんと語られており、秋山さんとの違いが明確になっている。

このオーラルヒストリーの中で、1973年3月17日、麻布公会堂で行われた名古屋市長選候補者指名選挙戦で、候補者三人立ったことが語られている。岩田さん、九州派の櫻井さんときて、三人目の候補者については、(以下引用)

 黒ダ:(三人目の候補者名の)全体が読めるもの(写真)がないんです。(記録として残る羽永氏の写真では三人目の候補者は「グラツヤス」または「グラシヤス」と読める)
 岩田:わからないけど、そういう男がおったんだよ(笑)。グラツマか。
 (それで、候補者は)若手代表(グラシャス)、中年代表(岩田信市)、大先輩(櫻井孝身)。(ということになったんだ)

とあるが、若手代表(グラシャス)は、その前に出てくる「矢矧(雅英)」さんで、なぜかこのときに、矢矧さんは、「グラシャス」という名前で立候補したのだった。

岩田さんのオーラルヒストリーを読み、正月の歌舞伎町での<ゴミ姦>儀式などすっかり忘れていたことが、鮮やかに蘇ってくるのだった。
しかし、岩田さんに再会しても昔話は、まず、ないだろう。
あの笑顔とともに、いま、何をやっとる?という岩田さんの名古屋弁まるだしの会話がそこで始まり、細く深い光を放つ視線が向けられてくるだろう。

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2017.09.17記

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