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モダンな風は海岸都営アパートから 【東京は芝神明、浜松町あたりのものがたり】


山手線浜松町駅の東側には、旧芝離宮恩賜庭園があり、蓬莱山を模した中島をたたえる大きな池がある。かつては、江戸湾から潮の匂いを運んだ海風が、池の水面を揺らしていたこともあったが、今は、巨大なビル群からの大きな隙間風や人いきれで水面が揺らいでいるようだ。しかし、ビジネス街となってしまった浜松町の中で、江戸の昔と変わらぬ佇まいを今に残している空間で、地元の人間は、愛着を込めて「芝離宮」と呼んで親しんでいた。その芝離宮の東側、首都高と海岸通りが重なり合う交通路と芝離宮のあいだ、現在は、島嶼会館がそびえ立っているあたりは、昭和30年代の前半には、大きな工場があった。その工場が大きな火災にあい、壊滅し、その後に建ったのは、港区海岸都営アパートだった。

都営アパートが出来た時には、既に首都高も完成しており、都営アパートの建物は、首都高の高さまでは駐車場になっており、首都高より高い部分が、都営アパートとして居住区になっていた。首都高の喧騒の下に住居区を設置するのを避けて、首都高を見下ろすようにと建てられていた。

東京オリンピックの始まる少し前の話だ。

その頃の浜松町には、高い建築物などは、大門を通る旧東海道の国道1号線伝いにもまだほとんどなく、山手線浜松町駅から見れば、東側、芝離宮の向こう側に海風に立ちはだかるように立つ大きな建築物が出現することとなった。(参考1)

浜松町の中心地である駅の西側の地域の人々の間でも、今までの浜松町にはない、いわばモダンな都営アパートができるということがもっぱら話題になった。

話題の中心は、高速道路よりも高く設けられた居住区の高さだけではなく、居住空間の新奇さだった。話題になったことは2つあった。ひとつは、アパートにもかかわらず、一室ごとに二階建て構造になっていて、玄関入ると奥の居間と台所に行く手前に、階段があり、上ると二部屋あるという作り、もうひとつは、洋式トイレの設置だった。

浜松町駅の西側は、町家が多く、アパートも木造2階建てが多かった。東側は、竹芝桟橋という波止場はあったが、住居区といえば、海近くの小さな工場が2~3あるあたりの一角と駅そばの郵政省の公務員宿舎ぐらいで、都営アパートができたので、3つ目の居住区ができたという感じだった。公務員宿舎も4年ほど前にできたばかりだった。

海よりの未開の地ともいえるところに建つ住宅アパートが話題にならないはずはなかった。

そのころの浜松町という町は、都会の真ん中にありながらもどこか鄙びた風情があり、朝にはラッパ吹いた豆腐屋が自転車で走り、昼には子供たちの声が町の路地のあちこちで響き渡り、出前の蕎麦屋のあんちゃんが浪曲を唸っていて、夕方には、焼き鳥屋の煙が道端に流れ、田端義夫の歌が聞こえてくるようなところだった。

そこにちょうどその頃流行り始めた舟木一夫のように新鮮で若々しいイメージの近代的なアパートが芝離宮の向こうに出現したのだから、次の興味は、はたしてそこにはどんな人たちが住むんだろうということになってくる。

都営アパートに新しい住人が引っ越して来始めたころのある朝、学校に行くと、一番後ろのはずの僕の席の後ろに、机がひとつあり、見たこともない少年が座っていた。髪は少し縮れ毛で、その下には広い額と丸っこい目があり、唇は何か怒っているのか不満があるのかぷくっと膨れている。四角い顔の下にはただのふっくらとした肉付きのよい体がついており、来ている洋服から察するに、浜松町では珍しいホワイトカラーの家庭の息子らしかった。

僕が、見るともなく、冷やかすように見ていると彼も何も言わずに、あいかわらずふくれっ面しているので、面倒になり、見ることもやめてしまった。他の子どもたちも同じような反応で、見るとはなしに観察はしていたが、彼自身がひと言も発せずじまいなので、結局僕と同じように、飽きてしまい、いつもの日常に戻ったのだった。

やがて、先生がやってきて、転校生である彼の紹介をした。都営アパートに新しく引っ越してきた子どもだった。彼の名前は、ナカオヒロシ。その後、ヒロシは、お母さんが姓名判断に凝っていたとかで、ヨシヒロになったりで、また、戻ったりで、ややこしくなり、同級生たちは、ナカッペと呼ぶようになり、やがて、ナがとれ、カッペが彼の愛称として定着した。都営アパートのカッペの誕生だが、それは、もう少し後の話。

カッペが転校してきた日に家に帰ると、母親がすでに転校生のことを知っていた。カッペの母親が、息子が同級になるので、よろしくと挨拶にいらしたという。転校生であることを心配した母親が担任の先生に相談したところ、同じ海岸地区の近くにいる僕と友達になるようにと言われたそうだ。学校で会ったカッペの不服そうな面構えと彼の母親の素早い行動力とが、何となく結びついて、子ども心にも納得するものがあった。

それにしても、カッペの母親の行動力には、驚かされた。子どもの転入先の小学校の担任に会いに行き、その足で、僕の母親を訪ねて、息子のことをお願いしますと挨拶する。
こういう行動力のある母親像は今まで見たことのないものだった。

カッペの母親は、専業主婦ではなく、社会に出て会社員として勤務していた。カッペの母親だけでなく、都営アパートの多くの母親は社会人として働いていたという印象が強い。自営業ではなく、会社勤務かパートか、それに準ずる働き方、すなわち家を留守にする働き方をしており、小学校の同級生のなかにおおくいた商店のおかみさんではなかった。また、彼女たちには、社会に対して、政治や文化に対して自分の意見をもっているひとたちがおり、相手が子どもでも機会があれば、語ってくれた。

こういう母親たちというのは、僕はまったく初めてみる母親であり女性たちだった。それまで僕が見てきた母親は、自分の母親のような専業主婦か、商店のおかみさんだった。

海岸都営アパートができるまでは、浜松町の新参者は、官舎に住む僕たちだった。僕たちが、浜松町のもとからの住人(山手線の内側)の目にどのように映っていたかは、今となっては、もう皆目わからない。ところが、僕たちよりも新参者だった、都営アパートのひとたちからは、小学校の同級生を通じてという狭い通路を通してだが、新しいライフスタイルの風が吹いてきたように感じたことを覚えている。

新しい風というのは、先に書いた、今まで見たことのなかった母親像のほかには、文化風俗の風みたいなことがあった。

これは、カッペではないが、自宅に遊びに行くと、広いテーブルに数脚の椅子が囲むリビングルーム(居間ではなく)の書棚に見事な少年少女文学全集が並んでおり、その横には、何とあの「少年ケニア」の挿画いり全集があったりして、頭がくらくらしたのも、都営アパートの同級生宅だった。

集英社から小学校上級向けの新しい文学全勝が出版されることを掴んだ僕は、早速両親に、友だちの家には文学全集があったことを話して、集英社の全集を毎月購入することを承諾させてしまった。ほんとは、「少年ケニア」も欲しかったが、そこまでは無理だと踏んで、文学全集に絞ったのが功を奏したようだった。

カッペのお兄さんは、地元の公立中学に行かずに、中学受験というものをして、学芸大学付属中学という学校へ行くことも知り、世の中には公立中学しかないと思っていた僕は、びっくりしたものだ。カッペのお兄さんが中学受験ということをしたことは、僕に思わぬ影響をもたらした。

あの活動家のカッペの母が、わが家を訪ねてきて、いつもの雑談のなかで、カッペが小学校5年生から塾に行くので、お宅もどうですかという話をした。僕の両親は、そんなことは思いもつかず、どう考えていいかさんざ迷って、結局僕に、カッペが塾というところに勉強しに行くので、ひとりでやるのも長続きしないので、お宅もどうだろうと誘われたけど・・・どうする?と聞いてきた。

僕は、子どものころから新しもの好きのおっちょこちょいで、こんなことを言われたら、返事は決まっている、行くよ!だ。

かくして、僕の住むアパートの幼馴染のマッチンも誘い、カッペと三人で、隣駅の田町で降りて、慶応大学の北側にあった塾に通うこととなった、小学校5年生の4月だ。

その塾では、僕たちの小学校の生徒で長続きしたものはなく、いわば、お試しで入塾を許された、と母から聞いていた。何だか、小学校や僕たちがバカにされたような気もして、負けん気の強いところもあった僕としては、クソっとは思った。

塾の開始日に行くと同じ年の子が30人ほどいた。先生が一人一人の名前をノートしているのを聞いてて、びっくりしたというか、安心したのは、そのほとんどは、浜松町の隣の新橋寄りにある小学校の生徒で、そのなかに幼稚園の同級生が多くいた。

僕とマッチンは、送迎バスがあるという理由で、母親たちが選んだ、家からだいぶ離れた幼稚園に通っていたが、そこは、隣の小学校の校区でもあったので、隣の小学校に知り合いがたくさんいるということが起きたわけだ。もちろん、ほかの学校からも生徒が来ていた。

先生は、ご自分の考えと信念をもっている熱心な教育者で、勉強しない者は去れ!という厳しい雰囲気が、教場に満ちており、ひとりで通っていたら、都心とはいえ、全校生徒が300人余ののんびりとひなびた小学校にすっぽりとつかっていた身としては、とてもいられない気がした。カッペの母の危惧は当たっていた。

初日の授業は、日本地理の1日目、九州地方の地形、山脈や大きな川、各県の主要都市などについてだった。翌週の授業初めに前週の授業内容についての試験があった。これが繰り返され、授業の前日に勉強する習慣もついてきて、追い出されることもなく、いつのまにか、ほかの小学校の連中と親しくなることが面白くなってきた。

塾というのは、浜松町にもいくつかあり、都営アパートでは、ナカジマさんのおばさんが小さな勉強会を開いていたりしていた。このナカジマさんのオバサンもなかなかの活動家で、洗濯洗剤の共同購入などで、僕の母親ともいつのまにか懇意になっていた。息子さんは、同じ小学校の2級上にいた。

このころ、すなわち1965年の4月ごろに、都営アパートから新しい情報が入ってきた。少年向けの「ボーイズライフ」という雑誌があり、5年生になったので、親が毎月取ってくれるという同級生が現れたのだ。「少年ケニア」の全集をもっていた同級生だ。

これは、僕やカッペ、山手線内側の連中にも大事件だった。まず、「ボーイズライフ」なんていうしゃれた名前の少年誌なぞは全く知らなかった。僕とカッペが、それこそ懸命に読んでいたのは「少年ブック」だった。「少年」や「少年画報」という雑誌もあったが、それは僕たちより年上の連中が読む感じで、僕たちとしては、そこは一線を引いてまだ新鮮なイメージだった「少年ブック」に食指を動かしていたわけだった。

そんなところに、聞いたこともない「ボーイズライフ」!

「ボーイズライフ」を毎月買っている同級生とああだこうだと言いあっていたが、結果的には、僕たちは、あっという間に「ボーズライフ」に蹂躙されてしまった。元々は、中高生向けの娯楽誌だったらしく、掲載されている情報が、僕たちにしてみれば少し背伸びした内容で面白かったのだ。

中でも、ちょうど連載が始まったマンガ、横山光輝の『蛟竜』(こうりょう)は、軍師といわれた黒田官兵衛が主役で、大河ドラマ「太閤記」にハマっていた僕たちの間で、たちまち、軍師というのが格好良いということになり、憧れとなった。それまでの僕たち浜松町少年文化に、猿飛佐助、宮本武蔵、舟木一夫、加山雄三というヒーローはいたが、軍師という知的な響きをもつヒーローは初めてだった。タケナカくんは、軍師竹中半兵衛と同じ苗字ということで、通称ハンベエさんになってしまったぐらいだ。

「ボーイズライフ」を読む同級生の家では、家族で行く映画というのが、外国映画で、翌年に公開された、ソ連の「戦争と平和 第1部」もいち早く観てきて、僕たちに話してくれた。家族で映画にゆくといえば、東宝や大映の怪獣映画や東映の正月映画だった僕には、ありがたい情報だったが、わが家ではおよそありえないライフスタイルだった。

このモダンな家庭出身の同級生の通称は、ブタケツになった。背が高くひょろ長い身体にお月様を少しぺしゃんこにしたような顔がのり、そこには少し上向きの個性的な鼻があり、興奮してくると少しどもりになるしゃべり方が特徴的だった。あるとき、野球をやっていたとき、スポーツでは不器用なところのあった彼が補欠で参加しているのをみて、ガキ大将のツグが、あいつは、ブタみたいな鼻をして補欠だから、ブタケツだ!といってこの通称が決まった。

ブタケツは、並み以上の知識と論理をときたま展開する理論家だった。どういう経緯か忘れたが、ブタケツ、僕、ハンベエさん、コーパンという4人で、学級壁新聞を作り出した。このときの編集長は、ブタケツ。僕はおっちょこちょいだが、アンテナがあり、ハンベエさんは、さすが軍師で人に流されないところがあり、コーパンは、少し小柄な筋肉質で一度決めたらやりきる行動力で皆に信頼されていた。編集室は僕の家で、記事の企画をしたり、取材して書いたり、書いたものを模造紙に貼りつけという作業をワイワイ言いながらやっていた。もっと勉強のできる子や文章のうまい子たちがいたが、新聞というものは、こういうやんちゃでまとまりのない人間たちで作るのが相応しいと子ども心に思っていた節がある。

非公認で始めた壁新聞は先生の許可をもらい、クラスに張り出すと大人気になり、2号3号と続けてゆくようになった。調子に乗ってきたそのところ、ブタケツ対編集部員のあいだでいざこざがあり、ブタケツをクビにするとか僕たちが騒ぎ出すこととなった。仲裁に乗り出したのは、担任の先生で、説得された内容はからきし忘れたが、やはり、編集長はブタケツが良いということに僕たちも納得し、小さな騒ぎは収まった。その後も、ブタケツ編集長で、壁新聞は続けられ、投稿者も現れ、SF小説まで載るようになり、この4人は、団結して、というか、元の通り、自分たちが一番楽しみながら続けたのだった。

さて、カッペたちと塾に通い始めてそろそろ1年になるころには、カッペ、マッチン、僕は、中学受験というものをすることになっていた。そして、カッペの母親が新たな試みを提案してきた。東京には、今通っている塾の数十倍の規模の教室があり、そこで勉強した方が受験勉強に役立つということだった。僕の母親は、また、僕に聞いてきた、どうする?僕の答えは、何の考えもない、ただ夏休みの臨海学校に行けるんならいいよ、と。かくして、カッペたちと急遽その大規模教室の入学試験を受けることとなった。すると、受かってしまった。

日曜日は、朝から、原宿にある大きな教室に行き、夕方終わるといつもの塾に行き、帰ってから「ウルトラマン」を見ながら食事するという忙しい生活が始まった。小学校の友達とは、日曜日に遊ぶことはもともとなかったので、元の付き合いのまま、遊びもしたし、臨海学校にも、夏休みのプールも積極的に参加した。

大規模教室も、また、異文化だった。まず、原宿という駅に行ったことがなかった。駅から出ると、今でいう竹下通りを明治通りまで歩き、明治通り沿いに左に行ったっところに、会場となる社会福祉大学という建物があった。原宿から明治通りまでの竹下通りは、まだ、住宅街で、住宅街がない浜松町で育った僕には、郊外にある叔父の家に行くわけでもないのに長い住宅街を長く歩くというのがいわば異国体験でなかなか慣れなかった。大規模教室での、200人は優に入る教室でのテストと講義という勉強スタイルもそこに黙々と通ってくる同年代の大勢の連中も少し前の僕には予想もしなかった環境で、毎週日曜日は忙しい一日だったが、こういう環境の変化が別に嫌ではなかった。

そうこうしているうちに、1年経って、中学受験がはじまり、僕は、同じ港区の丘の上の学校にひとりで行くこととなった。全校生徒300人余の学校から1学年300人の学校にゆくので、ひとりというのは何とも心細い。僕の小学校からその学校にゆく生徒は今までもほとんどなかったが、運のよいことに、都営アパートのナカジマさんのおばさんの息子さんが通っていることがわかった。

丘の上の学校に行くことが決まってから、母親同士が知り合いということもあり、ご挨拶に伺った。

海岸都営アパートにあるナカジマさんのオバサンを訪ね、1階の居間に通されると、ナカジマさんのご両親のほかに若い男性がひとりいらした。今度通うことになる学校の数学の先生だという。息子さんは、卓球部におり、その顧問で、ナカジマさんのご両親とも親しく、独身でもあるので、ときどき遊びにいらしているということだった。その先生にご挨拶すると、へぇ~、こんどうちのガッコにくるのかいといたずらっぽい顔で笑っている。先生というひとたちには、小学校の担任の先生はじめ何人かに会ってきたが、上に立つのではなく、同じ位置から話してくる先生は初めてだった。

すると、2階からどたどたという音と何人かの笑い声が聞こえ、賑やかな様子が伝わってきた。息子さんの卓球部の友だちが遊びに来ているということだった。ほかの生徒に比べるとナカジマ家は学校から近いこともあり、卓球部の同期たちがよく遊びにくるとのことだった。

1階では、先生がすっかりくつろいでご両親と歓談していて、2階では部員たちが大声出して遊んでいるというわけだ。

先生とご両親に2階を覗いて見るかいと言われたが、さすがにその日は遠慮して、というか、どうしていいんだか、わからず、早々に帰った。

僕にとっては、浜松町からはとても遠いと感じていた丘の上の学校だが、ほかの生徒には、僕の家があるあたりは、丘の上の学校からは近いと感覚だと知ったのは、凄く貴重な情報だった。自分のいる位置を外から眺めるという怖ろしくも魅惑的な体験をした初めての瞬間だったかもしれない。

そして、丘の上の学校に通うようになり、これが縁ということになるのか、10歳のころからやっていた柔道をやめて、卓球部に入部した。

小学校の先輩のナカジマさんは、卓球部でも先輩となった。


(参考1)

公益財団法人東京都公園協会 旧芝離宮恩賜庭園サービスセンター配信のnitter(2021年8月4日の記事)に国鉄浜松町駅を背後に芝離宮の庭園から見た、海岸都営アパートの写真がありました。

https://nitter.skrep.in/pic/media%2FE76Vej2VEAEm2zM.jpg%3Fname%3Dorig


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