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丘の上の気ままな砂時計【丘の上の学校のものがたり ⑥】


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1971年の春に、少年たちの学年は丘の上の学校で高校2年生になった。
丘の上の学校では、生徒を一か所に集めての始業式は行われず、少年は、例年通り、登校するとそのまま新しいクラスのある教室に向かった。

毎年行われるクラス替えも5回目になると、中学校時代のような新鮮味や興奮もなく、教室のなかは淡々としていた。新しいクラスの担任は、古参の漢文の先生で、少年たちから見れば、年いった祖父といった年代で、生徒への接し方も愛情あふれる祖父が孫に厳しく接するようでもあり、直接お互いの心に触れるようなやり取りは難しいにしろ、教師としての矜持と生徒への愛情には、信頼できるものがあった。

少年は、すでに退屈さを覚えて、教室のなかの喧騒から離れるようにガラス窓から中庭の風景を眺めていた。最近までは、コの字型校舎の中には、校舎にそって植えられた古い桜の木に挟まれた空間があり、コの字型校舎に対面するように、私立校らしい伝統を象徴し威厳のあった古い大きな講堂があり、その講堂をバックにして、創立者の大きな胸像が校舎を静かに見守っていた。

コの字型校舎内部の廊下は外側にあり、教室や教員室の窓からは、中庭が見られるようになっており、中庭は、創立者の胸像あわせて、この丘の上の学校の関係者の視線を集める場所でもあった。正門から出入りする生徒たちは、必ずこの中庭を通過するので、生徒たちが醸し出す丘の上の学校に流れる長短の時の流れを眺めるには最適な空間だった。

今は、新講堂の建設のために、古い講堂は取り壊され、創立者の胸像もなく、建設現場と校舎を区切るため、コの字型校舎に蓋をするように、工事用の塀が連なっていた。しかも、中庭には、プレハブの小屋が数個並んでおり、砂時計のように味気ない工事の時を刻む光景となっていた。

毎年、見事な花々を中庭一杯に咲かせ、生徒や教職員の心を和ませてくれていた古い桜の樹たちも、プレハブ小屋や工事資材で埋め尽くされた、殺風景な中庭では、彩り豊かな自分たちの季節をしまい込んでしまい、灰色の春が人知れずに丘の上を過ぎてゆくようだった。

少年には、この無機質な雑然とした建設現場の風景は、見れば見るほど、自分たちの置かれている殺伐とした環境を直截的にあらわしているかのように思えていた。

丘の上の学校の最終学年である高校3年生は、受験勉強などで学校内の活動での第一線を引いてしまい、部活や学校の行事に関わる学年としては、高校2年生は生徒たちのなかでいわばトップになる学年だった。部活では、キャプテンや代表、学校行事では、生徒協議会の議長などの役職、文化祭と運動会ではそれぞれの実行委員長及び実行委員を務めることになる。丘の上の学校という小さな社会ではあるが、本来は、「お山の大将」気分になれるわけだ。

しかし、少年たちが高校2年生になって、目にした「お山」は、緑豊かで餌場満載というわけではなかった。新築工事というと新しいものが出来上がるイメージで、聞こえは良いが、少年たちが、新築工事に感じたのは、自分たちが慣れ親しみ、先輩たちから譲り受けてきた、目に見えるものや目に見えないものを少年たちの思いを無視して、ブルドーザーで野蛮に破壊していったイメージだった。

朝夕の登下校に馴染んでいた、古い書体の学校名の門札がかかっていた、講堂に近い正門は工事用出入口として、工事関係者以外は使用禁止になった。校舎の裏側にあり、昼食時の外出ぐらいでしかほとんど使用されていなかった裏門が、生徒教職員用の学校への出入口となった。裏門には、ギィッという音を立てて開閉する鼠色の厚い鉄の扉がついていて、そのひとを拒むような無色の冷たい光景は、監獄すら連想させるとまで言われていた。

講堂の新築工事の警備のためということで、工事現場にガードマンが配置されていたが、このガードマンたちはスーツ姿で工事区域外の校内にいることがあり、教育とはまったく無関係なにおいをまき散らす体格の良い異様な目つきの男たちの巡察は、いやでも目だった。工事のためだけでなく、生徒や教職員への威嚇威圧のために雇われているようだった。

少年の学校への心象風景は、学校内に響く工事音のなかで胸糞悪く沈み、このままではいられない焦燥感が体に落ちてきていた。
丘の上の学校に置かれた砂時計がひっくりかえされ、なにかに向かって、時を刻み始めていた。

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昨年4月に急遽赴任した、教師免許を持たないゆえに校長代行という肩書の巨漢による学校支配に対し、学校の存在基盤に関わるほどの混乱を起こしそうな大きな反撥が水面下ではマグマのように胎動していたが、生徒や教職員への一方的な権力を行使した制度変更の締め付けは続いていた。

生徒たちは、学生証と生徒規則が記載された生徒手帳を常時携帯し、職員からの要請があればすぐに開示しなければならなく、登校時における制服制帽の着用、学内外における政治活動の禁止、学内における無申請無許可の3人以上の集まりの原則禁止、徹底した懲罰とその公表などが着々と行われ、規則がないのが規則と言われてきた自由な校風とは真逆の締め付けにより、校内の教室や廊下には工事の雰囲気とあいまってなんとも無味乾燥な空気が沈殿していた。

少年は、慣れない制服にうんざりしながら、同じ様にうんざりしている友人たちとの付き合いのなかで、自分たちを締め付けてくる体制への不満がのたくっているのがよくわかっていた。校長代行着任まえに、教職員との話し合いの中で確認された「生徒の自主的活動の自由」をこのまま砂上の楼閣にするわけにはいかないのだ。

生徒の政治活動の禁止は特に取り締まりが厳しく、学外でおこなれている政治集会には、集会の規模に関わらず校長代行の命令により、教師の一部が出向き、丘の上の学校の生徒がいないかを見張らせ、発見された生徒は厳罰に処せられた。

少年たちが高校2年生になったときに、学内外で政治活動をしていたことで知られていた1級上の先輩が4人留年になり、少年と同学年の1名が本人の希望という名のもとに、他校へ転校していった。
留年して同級生になった4人の先輩とは、少年は何度も顔を合わせることが多く、良く知っていた。

それどころか、そのうちの一人は、少年の卓球部の先輩で、初めて学校近くの蕎麦屋に連れてってもらうなどあれこれとこの学校や卓球部の流儀を手取り足取り教えてもらったり、前回の文化祭では、接待部門長として、少年たちの学年の部員を全員副部長にするという奇策で乗り切ったやり手だった。全校対話集会が開かれるきっかけになった集会で、校長室に談判にいったときに、ハンドマイクの音が割れるほどの高音で当時の校長に語りかけていた姿も鮮やかだった。

この先輩とは、奇縁があり、この2年後の早春に、はるか東京を離れた地で、ふたりで卒業式をおこなうことになるのだった。

もうひとり、少年が良く知っていたのは、歌のうまさや音楽の才能では校内でも評判の高い、ひょろ長、もじゃもじゃヘアーのジローさんだった。ジローさんは、政治活動家としては、一目置かれる存在で、機動隊に捕縛された後も完全黙秘を貫いて出てきたなどのいくつかの伝説を既にもっていた。ひと懐こい人柄で、少年の学年にすぐに馴染んでいった。留年した4人ともそれぞれ個性的であり、それぞれの得意分野では少年たちの学年生徒たちに敬意を払われることもあり、本人たちの本音は別にして、新しい同級生たちに溶け込むのも早かった。

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校長代行による昨年からの独断的な専制体制は、丘の上の学校の内部に、いくつかの大きな不安定な亀裂を生み出していた。

校長代行出現以前にも丘の上の学校の生徒たちには、大きく二種類のグループがあった。ひとつは、どこの学校にでもある、学校公認の部や同好会で、入部、入会でグループの境界線がはっきりしていた。もう1種類は、趣味趣向などから始まった仲良しグループが発展したグループや演劇活動や政治活動で集合離散を繰り返すグループで、学校公認とは無関係で、グループの境界線もあいまいで、外部からの視点をずらすとメンバーも異なって見え、グループとすら見えないことがあるような集まりだった。この二種類のグループが重なるように混ざりあうように混在していた。

少年の周りには、規則と懲罰で生徒を管理する体制づくりをする校長代行を軸にしてみれば、賛同するグループと反対するグループとが両極端に位置し、あいだにはさらにいくつかの中間グループが両端へのグラデーションを描きながら存在した。

これらの中間グループは、ひとつひとつが境界線があいまいで、視点を変えれば構成が違って見えるし、グループ化していないただの個人の集まりにも見えてしまうような曖昧な集団だった。確かなことは、校長代行派からすれば、反校長代行派はくっきりとおり、逆もまた同じだったことだ。

やがて文化祭を担ってゆく少年たちの高校2年生の学年の反校長代行の先鋭グループは、アナーキストを称して学外からの政治的なセクトの指導や影響を遮断していたために、明確に組織だったグループをつくることはなかったが、反校長代行を明示している連中が、メンバーは入れかわったりしていても集団らしくまとまった動きをとることが多く、この境界線の曖昧な集団が、生徒協議会や文化祭実行委員会を彼らのやり方で操作してしていった。

中間グループのなかには、マキャアベリストを気取る生徒もあり、主義に従い、あえて校長代行室へ積極的に出入りするなどの偽悪的な活動をしていたが、見る人が見れば、どうみても利にさとい、両天秤をかけている存在にしかみえず、本人たちは意気軒高だったが一部では顰蹙を買っているようだった。

校長代行に対する賛同と反対の引き裂かれた雰囲気は、生徒たちのみならず、教職員をも巻き込んでおり、校長代行による規則と懲罰を看板にした専断的な制度変更の力づくの推進は続き、これ以上は、この両派の共存は難しい状態にまで煮詰まってきていたように少年には見えていた。

校長代行自体も反対勢力を排除し、自分の学校支配をもっと確実にしたがっているようだった。しかし、日常の中で、徐々に決着がつくようなことではないことをだれもが思っており、今年1971年の文化祭の場がその決着の場であろうことは丘の上の学校の多くの人間が感じはじめていたようだった。

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少年も加わっていた生徒協議会グループが昨年度から時間をかけて練り上げていった、『生徒権宣言』は、やっと春に生徒協議会に提議され、生徒協議会担当の生徒科のシシカバを巻き込んですったもんだありながらも交渉力に秀でた生徒により決議までこぎつけた。

しかし、学校という枠以前の人間としての基本的な権利の存在からきちんと起こした「生徒の自主的活動の自由を基本的な権利」とする宣言文は、校長代行の体制に対する明確かつ基本的なアンチ宣言にはなったが、残念ながら社会的なパワーを持って校長代行体制を切り崩すところまでは到底とどかなかった。

この挫折は、ある程度予想していたこととはいえ、反校長代行グループに、日常的な活動のなかで学校を変革してゆくことの限界をつきつけてきた。次の作戦が必要とされていた。

少年たちの高校生徒の日常は、少年の周りでは反校長代行活動に囚われもし、緊張した日々が続いていたが、生徒間というか、仲間とみえる友人たちとの間では、あいかわらず自由な発想と行動でバカ騒ぎすることは収まりようもなかった。

あるとき、少年たちは、自分たちの反校長代行活動に不足している要素は何かについて、仲間内で討論が始まった。学校内の反校長代行意識をもっと明確にしてゆくとか、校外に訴え、社会性を帯びた活動にできないかと言ったシリアスな意見が熱く語られるなかで、誰かがふと笑いとかユーモアがないよなとつぶやいた。それはそうだということになり、笑いとかユーモアがないと鯱張った反対闘争の枠の中でがちがちに固まってしまうし、それじゃ当事者の俺たちが孤立するだけでなく、何だか詰まんなくなるよな、ということになった。そこからの話は、いかに多くのひとが笑い転げる、反校長代行活動をしてゆくかということで、盛り上がっていったのだった。

003

1971年の文化祭は毎年恒例の春開催は延期となり、秋開催となっていた。校長代行の発表としては、講堂改修工事のためということになっていたが、校長代行側が反対勢力を抑え込むために文化祭を利用するにはまだ準備不足と判断したこともあったらしい。

秋の文化祭開催に向けての、文化祭実行委員長選出の全校選挙が春に行われることになった。すんなりと決定したわけではなく、執行委員会メンバーと生徒科教諭シシカバの校長代行への粘り強い交渉で、何とか文化祭実行委員長選挙実施を生徒の手で行われることにこぎつけたのだった。

丘の上の学校の中学徒協議会と高校生徒協議会をつなぎ、各協議会の決議事項を実行する執行委員会は、高校2年生の4人で構成されていた。学校側と公の場で交渉を重ねてきた執行員のひとりが立候補するのが相応しいともいえ、そう考えた委員のひとりが委員長候補に相応しいと思える二人の委員に個別に打診したが、ふたりとも答えは否だった。彼は、空手部を立ち上げた盟友でもあったもうひとりの委員のタケシに今後の計画について相談した。

文化祭実行委員長選出全校選挙に、まず反校長代行の流れにシンパシーをもつグループが推す候補があからさまに立候補することはないだろうが、授業や部活を安心してできる体制を望んでいるグループ即ちグループの境界線がはっきりしている公認の運動部や文化部から推されて、その大きな固定票をバックにした候補者がでてくることが予想された。この穏健な立候補者へは彼の心意に関わらず、校長代行及び親校長代行グループが水面下で強力に支援してくることも考えられた。

こういう中での選挙管理委員会の役割は大きかった。選挙が正当に行われるように管理し、選挙結果の公式発表は彼らに委ねられているのである。

執行委員会は、選挙管理委員会を立ち上げ、執行委員のひとりであるタケシが委員長を務めることとなった。タケシは、どんな立場の同級生であろうと誰もが選挙管理委員長にふさわしいと考える人物であり、大きな安心感を同級生たちだけでなく学校内にもたらした。

タケシは、目立った反校長代行派ではなく、だれからも穏健なリベラルとして見られながらも、内には反校長代行の意思を強く抱いており、透徹した正義感を貫く骨太の倫理観と行動力を秘めている頼もしい存在として見られていた。彼が選挙管理委員長にいる限りは、校長代行による選挙へのあからさまな介入は防げるだろうということだ。


004

文化祭実行員会を形成してゆくことになる高校2年生の、反校長代行グループで、だれが委員長に立つかが少年たちの間で、協議され始めたころに、学年では悪行でつとに知られていたトオルが立候補したいと言っていることが伝わってきた。

トオルは、少し肥満気味の体にのっかっている大きな顔をおかっぱ頭と眼鏡で少し誤魔化してるという怪しい外見を上手く使って、独特の押しの強さを醸し出していた。誰が相手でも自分の意見、ときにはわがままを通す傍若無人な横柄な態度と人目を引く大きないたずらを堂々とする図太さで知られており、多くの生徒たちからは距離を置かれている一方で、優等生にはならないというワル的な面を堂々と自己演出している点では妙な人気もあった。
しかし、既に学校の体制や価値観から大きく外れている、例えば学内外で一人前の政治活動をしている連中からは、彼が装っている猛々しさの裏側にある気の弱さを見抜かれており、校長代行との戦いのなかでは、全面的に頼りにされているワルというわけではなかった。

少年も、トオルとはいくつかのかかわりをもっていた。同じ様な友人グループのなかにいるので、顔はよく知っていたが、特に親しいというわけでもなかったが、いろんなことがあった。

ある日、少年が帰宅すると、女の子から電話があったと言われた。名前を聞いても全く覚えがなく、放っておいたら、数日にわたって、数人の女の子から電話が入り始めた。少年には、まったく身に覚えがない。ついに、少年が自宅にいるときにかかってきた電話に出ることができた。二言三言話すと、相手の女の子は、あなたはほんとにわたしが会ったひとですか?と少年の名前を確認してきた。本物だと答えるしかない。そこで、少年の名を名乗っていた男の風体を聞いてみた。特徴的なので、すぐにわかった、トオルだ!

翌日、トオルに顛末を話すと、悪い悪い、自分の名前を出すのは恥ずかしいんで、つい、お前の名前を言ってしまったんだ、ごめんごめん、と、すぐに謝り、でも電話番号は教えてないぞとニヤリとした。ここで必要以上に悪びれたりしないのがトオルのよいところともいえた。いたずらがばれてわびているこどものようなトオルの態度に、少年もそんなことかと軽く納得してしまうのだった。

他にも、トオルとはかかわりのあることがいろいろあったが、だいたい、彼独特のおぉ~悪かったなぁということばで終わるのだった。

トオル自身、高校2年に至るまでの校内での一目置かれている評価の割には、皆が認めるこれといった手柄を何一つしていないという自己分析に自分自身で苛立っており、今回の文化祭実行委員長選挙で立候補し、校長代行に対する闘争の意味合いが強い文化祭で、委員長という難しい役割をこなすことで今までの評判を一掃するような内実の伴う評価を得ておきたいと考えたようだった。

少年は欠席したが、トオルと反校長代行グループの主なメンバーとの会合が開かれ、彼としては初めてであろうと思われるほど深く頭を下げて、候補者としての支援を依願してきたということだった。

トオルの申し出は、反校長代行派の同級生たちにとっても願ってもないことだった。反校長代行のシンボルとなる文化祭実行委員長としては、彼の丘の上の学校内での評判と貫禄はそれなりに相応しいものだったし、反校長代行の立場はいうまでもなく、他のメンバーとともに協力し合ってゆこうとする姿勢をトオルの新境地として認めることができたので、推してゆくことになった。

自分たちの今年の文化祭実行委員長候補はトオルに決まった。そして、予想通りに、温厚なスポーツマンが対立候補として、運動部経由から推されて立てられてきた。

選挙は、校内の大勢を占める反校長代行の心情的な流れに乗り、トオル圧勝かと思われたが、ここで、反校長代行グループ(と、いっても実体があるわけではないが)から新たにひとりが立候補し、トオルの支持層である浮動票を割ってしまった。彼の立候補の動機は親しい友人たちにもよくわからずのままだったが、中庭に面した校舎二階の庇に立って、ハンドマイクで教室にいる生徒たちに大声で呼びかけ、注目を浴びたところで、歌謡曲の雨の御堂筋を朗々と歌ってしまうなどの彼の軽妙な選挙活動は面白く話題にもなり、下級生たちに大いに受けていた。他にも高校1年から2名の立候補者が現れ、混戦状態になる可能性がたかくなってきた。スポーツマンの温厚な立候補者には運動部を中心にした学校公認のグループからの不動票があり、支持票が割れてしまったトオルは、ひょっとすると落選するという事態になってしまっていた。

選挙管理委員長のタケシは、まず、候補者間を回り、選挙自体がもっとシンプルになるようにと、トオルとスポーツマンの二人以外の候補者たちひとりひとりを独特の誠実さで説得し、ついにふたりの対決という局面まで作り上げていった。しかも、筆跡により投票者がだれかがわかってしまうことを避けるために、両名の名前を印刷した投票用紙に丸を付けるという方式を取り入れた。

タケシは、このほかにもトオルが落ちる事態にならないように密かにある作戦を立て、その準備にかかった。タケシが何を計画しているかは、だれも知らなかったが、仲間たちからは信頼され選挙に関する一切を任されていた。

そして、はらはらさせた選挙結果は、予想以上に順当にトオルが通り、タケシや仲間たちのトオル落選の心配は杞憂となり、ホッとしたのだった。また、在校生の多くが、校長代行の支持基盤を強化するように見える文化祭を望んでいないこともあらためて明らかになっていた。

今回は表には目立たなかったが、選挙のなかで辣腕を密かにふるっていたタケシの気骨ある姿勢は、少年たちの目に焼きつけられた。闘いを続けてゆくなかでいちばん必要なことは信頼できる仲間を得ることだった。

丘の上の学校の砂時計は、砂を落とす姿勢を変えることなく、砂を落とし続けていた。

005

トオルは、委員長になると、実行委員の面々に、自分は反校長代行としての直接的な活動へは距離をおきながら支援することをあらためて約束した。

彼の委員長としての見解は、文化祭パンフレット巻頭の『自由への疾走』で表明されている、「祭りとは非生産的な儀式であり、純粋な遊戯である。そして、遊戯とは、自由の表明であり、ひとつの自由な行動である。」

トオルが文化祭委員会の面々に、これだけは委員長になった以上は実現したいと要望したのは、フリージャズで有名な山下洋輔トリオを文化祭に呼び演奏会を開くことで、これはすぐに全員一致で実行委員会で承認された。
1969年に学生のセクトが対立する早稲田大学のバリケードのなかに乗り込んで、演奏会を行った山下洋輔トリオほど、反乱を秘めたこの文化祭に映えるゲストはいなかったからだ。

委員長の主な仕事は山下洋輔トリオのコンサートを文化祭で成功させることとなった。トオルは、山下洋輔に母校への招来をするために彼の演奏会が開かれる、LIVE HOUSEに通い、直接依頼できる機会を狙い、ついに成功させた。

学校側も口を挟んでくることがある文化祭へ向けてのさまざまな協議の場では、委員長は文化祭の用事で校内には不在であることが望ましかったのだ。

006

文化祭の実行委員会のメンバー決定と運営は、高校2年生の反校長代行派の主なメンバーで検討され決定された。そして、反校長代行グループの色彩が強くならないように、ところどころに反校長代行色の弱い穏健な連中を配置するように考慮されていた。マキャベリストも召喚された。

文化祭実行委員会は、企画委員会、会計委員会、運営部門、接待部門、庶務部門などの9部門により構成されていた。

文化祭の財政を担う会計委員会のトップには、生徒協議会、執行委員会で経理を務めていたユキオが着任し、生徒協議会と文化祭の両方の会計を管理し、実質的に一元化した。少年は、ユキオの要請により、会計委員会に入り、ユキオをサポートすることになった。

少年の会計委員としての最初の仕事は、文化祭に出展する展示グループやイベントグループの企画と予算を検討することだった。ユキオ委員長の指示は、各グループから提示される予算を大きく減額にすること、文化祭で使用する資材などは、文化祭実行委員会でまとめて購入し配布することを承認させることだった。文化祭の参加者からの予算見積もりは、実に自由奔放で、削減の交渉は、難航することもあったが、何とか、計画通りに収まった。実は、それよりも、必要資材の一括購入というのが、ユキオにとっては重要なことだった。

丘の上の学校の文化祭予算は、他の学校に比べると桁違いに大きかった。ユキオの狙いは、文化祭での表立った経費を締めて、反校長代行運動が長引くことがあった場合の資金の準備をしておくことだった。

少年は、ユキオの配慮が的を得ていたことにあとあとになってからやっと気づかされ、舌を巻くことになるのだった。

文化祭実行委員会の肝となる企画委員会には、高校2年の学年の反校長代行活動を引っ張って来たタカシとトオル文化祭実行委員長自らが入った。

各部門は、本人の希望に合わせて、誰が見てもその部門に相応しい生徒に任された。例えば、接待部門は、伝統的に卓球部が担ってきたので、卓球部から部門長が任命された。

運営部門長は、選挙管理委員会での働きを皆に認められ、文化祭進行での有事に備え、何があっても判断がぶれないタケシに依頼された。

ふたつの委員会と9人の部門長でなる文化祭実行委員会リストは、学校側に書類で届けられたが、この委員会の本質にあるのは、この学校の伝統である境界線のないグループでの話し合いで決めてゆくことであった。

パンフレットや記録を制作する庶務部門は、人柄の良さとコミュニケーション力を買われ、ジュタが部門長になり、部門員も16人もいたが、その中には、ユキオやタケシ、トオル委員長、会計委員会や企画員会のメンバーまで名を連ねていたし、一体だれがほんとに所属しているのか、実務をだれがやっているのかはよくわからなかった。

文化祭実行委員会の内部会議は、学内で開かれる公式な会議と学外で開かれるより実践的な会議の2種類あり、後者の存在を知らない部門長や委員もいたらしい。

また、学外で開かれる会合には、委員会以外の反校長代行グループのメンバーも多く参加し、さまざまな意見を交わしていた。ひときわ強く発言している中には、校長代行により留年させられた1級上の先輩たちもおり、だれかのGFもいつの間にか参加し、自由に発言していた。そういう自由な雰囲気をだれもが楽しみ、ふつうに受け入れて文化祭への準備は進んだ。

この自由な雰囲気のBGMには、ROCK音楽が合っていた。反校長代行のグループにROCKが好きな連中が多く、そのうちの大部分がバンドをつくり、演奏もした。少年もこの洗礼をずっぽりと受け、いつのまにかROCKファンになっていた。

いつの間にか少年と同級生になり、少年たちの学年の反校長代行活動で頭角を現してきていたジローさんは、音楽と自由な政治活動を兼ねる、その典型だった。舌鋒鋭い議論を熱く展開するかと思うと皆が疲れてきたころにギターでブルースを爪弾き、今まで熱くなっていた皆がふと聞き入ってしまうこともあった。長身痩躯でギターを背中に背負ってもじゃもじゃ頭を突き出して歩く姿は、一目でかれとわかるものだった。

企画委員会のタカシは、中学のころからバンド活動をする熱心なROCK通で、丘の上の学校に、米国のバンドCHICAGOをいち早く紹介した。その後、CHICAGOは、本人もびっくりするぐらいに学校中で大ブームを引き起こした。よくあるロックバンドにブラスバンドを加えた、厚みのある演奏は、丘の上の学校の体質と合うところがあったらしい。

委員長のトオルは、ジャズ好きのギタリストでもあり、キーボードなどにも興味をもってこなしていた。

ROCKと関わらずに、素通りして、この自由な雰囲気のグループに入ったメンバーはいないだろうと少年は感じていた。境界線があるような会合でもなかったが。

こうして、学校側との交渉や資材搬入と配布やスタッフ招集と配置の遅れなど内外に問題を抱えながらも一応文化祭実行委員会の連帯は強く錬られてゆき、開催日に向けて地盤は固まっていった。

007

秋の文化祭に向かうなか、丘の上の生徒たちの反校長代行の勢力は、まだ、いくつかに分かれたままだった。それぞれのパイプ役が、最低限の連絡は取り合いながらも別々に動いており、反校長代行勢力の勢いが殺がれていた。

高校2年の学年では、文化祭実行委員会、生徒協議会、公的なグループには属さない連中、少年のようにいろいろなグループに顔を出している連中、密かに学外で熱心に政治活動に励む連中などがいた。そこに1級上から留年してきた個性派が加わり、普段はばらばらだが、ときには不思議なまとまりを見せていた。

反校長代行の運動で最も精力的に活動し、大弾圧を食らっていた、全学闘争委員会の流れを組んでいたのは、高校3年生と1年生の各学年にあったグループだった。

高校3年は、中核派の高校生組織反戦高協を中心とする連中、高校1年は、共産同(ブント)叛旗派の流れを中心とする連中がリーダーシップをとっているようだった。こうした目立ったグループ以外に、学年に関係なく反校長代行活動に協力する連中もざわざわといた。

これらの学年ごとやグループごと、あるいは個人で、ばらばらに反校長代行活動をしている現状に対して、文化祭へ向けての活動の意思統一を図り、今回の目的を明確にし、共有するための会合が提案され開催が待たれたが、予定していた各グループの代表関係者を集めただけでも20人ほどになり、学内では全くできず、学外でも、反校長代行の主な活動家には校長代行の監視がついている可能性が高く、開催場所が見つからずに開くことができないままだった。

1971年の夏は、6月の沖縄返還協定の調印式挙行反対デモが盛り上がり、明治公園爆弾事件があり、中核派と革マル派の激しい内ゲバがはじまり、学生を主体としたハードな政治の季節は続いていたが、一方で、夏には、アンノン族が登場するなど、70年代から80年代を彩る「かわいい」ということばに象徴されるソフトコミュニケーションの新しい文化潮流の兆しがはじまっていた。

71年の8月6日の広島での原爆慰霊祭に向けて、「1971夏東京-広島『愛と怒りのゼミナール』」というタイトルのティーチイン列車が東京駅から発車され、作家の小中陽太郎氏や北山修氏が途中の停車駅から参加し、250名ほどで兵役拒否や南京虐殺などについて6両の車両に分かれて討論がおこなわれた。

丘の上の学校から、この列車に乗り込んだのは、少年たちの学年で反校長代行活動を熱心に行い、ユニークなアイデアとひとをまとめてゆく行動力で影響を与えてきた企画委員会のタカシだった。彼は、体操部出身らしく小柄だが筋肉質の身体を躍動させて、いろいろなグループ間を飛び回り、反校長代行の運動のなかでまとめ役として異彩を放ってきた。
そして、彼は、この広島旅行で、既成の政治活動には当てはまらない、あえて言えば、米国西海岸のヒッピーやイッピーの流れをくむ複数のグループと知り合い帰ってきた。

そして、タカシは、8月27日~28日にかけて、渋谷の代々木公園のイベント広場で、美術評論家ヨシダヨシエ等が企画した「人間と大地の祭り」が開催され、そこには、大勢のヒッピーグループや現代美術のアーチスト、ミュージッシャンが集まるという情報をもたらした。

文化祭ヘ向けての反校長代行の各グループが集まる話し合いは、既存の大規模政治集会には、校長代行派の監視者が張っており、そこではできなかった。タカシのもたらした、「人間と大地の祭り」という大規模イベントは、有象無象の大勢の人が集まり、公的な広場でオープンな祭り状態でひとが乱雑にざわめいているようで、今までとは異なった新しいスタイルのイベントのその場所こそ、文化祭へ向けての反校長代行各グループが集合し話し合いをするには打ってつけだった。

8月27日の夜に、反校長代行グループの関係者は、この祭りの会場である代々木公園イベント広場に三々五々集まった。
現代美術の過激なパフォーマンス集団として知られていたゼロ次元の複数のテントの横の薄暗い芝生の空間を借りることとなった。

この場で、反校長代行の活動をする、先鋭的な武装蜂起グループから文化祭実行委員会などの代表者20名ほどで討議することができた。
文化祭に向けて、協力し合い、校長代行体制を打ち破り、「生徒の自主的活動の自由」を取り戻すことを目的とする意思統一が行われた。

反校長代行の高校3年生と1年生のグループが合体した先鋭的なグループが出来ており、《かれら》としては、来場者の多い文化祭の場を利用して校長代行との対話を直接求め、そのなかで現在の丘の上の学校で行われている人権を無視した力づくの制度変更の非を学校の内外に問い、校長代行体制を破るきっかけをつくることを目的としていた。
その目的のために、校長代行側が用意する暴力に対抗すためにある程度武装した格好、大学生の政治活動で見られるゲバ棒とヘルメットで武装した格好で文化祭に突入する実力行使をおこなうこと、校長代行はその機会にガードマンだけでなく、警視庁機動隊を校内に導入し、反校長代行派自体を孤立させ一掃することを狙っているはずで、それに対して、文化祭実行委員会は、対話できる安全な場を確保し、生徒やその父兄、一般来場者に校長代行の非を明確にし、協力を仰ぐように行動することを確認した。

この場には参加していなかったが、教職員のなかの反校長代行グループとの密かな連携もあり、文化祭への準備は進んでいった。

生徒間の先鋭的なグループや文化祭実行委員会、その他の反校長代行の旗幟鮮明なグループや一部の教職員たちとのいわば地下のパイプ役は、今までの活動のなかでそれぞれのグループから信頼をかち得ていた、タカシとジローさんのコンビが自然になっていった。アイデアマンで行動力あるタカシと人間味過剰でタフな音楽家ジローさんとのコンビは同級生たちからも絶妙のコンビに見えていた。

文化祭へ向けての大同団結の会合が終わると解散となったが、少年は、ジローさんやタカシたちとこの見慣れない、「人間と大地の祭り」という不可思議なイベント会場を見てまわることにした。

基本的には、ヒッピー運動の流れにあるようだが、映像やパフォーマンス、音楽などのアーチストがいたり、テーマ別の小集会もあり、ヒッピーのような人たちが屋台を出していたり、と、今までの政治集会とは明らかに違う集まりで、ひとつのテーマに縛られない自由な雰囲気は、少年たちの学校の文化祭のようでもあった。

会場の真ん中あたりにできたステージらしきところで演奏しているロックバンドがとても良い音だったので、ひとに混じって聞いているとポンと肩をたたかれた。
「おい、このバンドのツエッペリンはなかなか良いぞ!よく聞きこんでるよな!」
隣に、ガラさんがいた。

ガラさんは、卓球部の1級上で、前陣速攻型と呼ばれるスタイルで、卓球台にしがみつくように陣取り自陣に入ってくる球を小気味よく打ち返していた。卓球以外でも随分と遊んでもらった。特に洋楽についてはいろんな音楽やグループを教えてもらった。
昨年の冬だったか、練習熱心で休んだことのないガラさんが急に練習を休んで卓球場に顔を見せなくなった。10日ぐらいして現れたガラさんは、軽妙に洋楽を語る人ではなく、政治について熱くたたみかける活動家に変身していた。一般学生がオルグを受けて一夜にして政治活動家に変身することをこの当時は、「空気を入れる」といった。ガラさんは、まさに空気を入れられていた。

その後は、卓球場に顔を見せなくなり、校内で見かけても、近寄りがたくなっていた。少年は、政治問答は苦手だった。

そのガラさんが、全く久しぶりに、ロックの話をしてきた。さっきの会合の薄暗いなかで武装グループの一人として参加しているところを見かけてはいたが、もう、ロックなんてプチブルの音楽だとかで聴かなくなっているだろうと思っていたので、まさか思いがけずガラさんとロック談義をすることが少年はとても嬉しく、ことロックについては感性が変わってないガラさんに安心した。

やっぱりガラさんにヘルメットは似合わないよなと思うのだったが、文化祭はいやおうなく近づいていた。
砂時計の上にある砂は、だいぶ少なくなり下に落ちるスピードが早まってきていた。

008

例年より半年遅れの秋に延期された1971年の文化祭は、伝統的に3日間の開催日が10月2日と3日の2日間に短縮されていた。

文化祭実行委員会の本部は、中庭のプレハブに設置され、委員のみならず、教職員含め多くのひとが出入りし、混雑を極めていた。

少年は、その本部になるべく常駐して入ってくる情報を各部門や関係者に伝える役割になった。といっても、本部に腰を据えるわけではなく、情報を集めたり伝えたりするために学校内を駆け回っていた。少年にとっても、この文化祭は、反校長代行のひとりとして、正念場だった。あたりの気配をうかがいながら、動きながら考え、考えながら動き、仲間たちとの会話のひとつひとつが愉快で重かった。

文化祭の初日は、難なく、無事に過ぎた。

文化祭のの2日目である10月3日は、前日と変わらず、曇り空の下、校内には、生徒や職員の家族や多くの女子校生たち、丘の上の学校への入学を目指したり興味を持っている小学生、そして、同世代の中高生たちで賑わっていた。
その中を、険しい目つきで歩き回る体格の良いスーツ姿の男たちがおり、文化祭の場に合わない異様な雰囲気は来場者たちの眼を引いていた。

昼が過ぎ午後になるにつれ、ガードマンたちの動きは活発になり、顔は険しくおかしなことが目に入ってこないかとギラギラした目つきで文化祭の会場を歩き回っていた。彼ら自身は、この場で、異様な存在であると来場者にも思われていることを気にしていなかった。

ガードマンたちだけでなく、多くの生徒や特に文化祭実行委員会の生徒たちは、昼過ぎあたりから、自分のなかでどうしても膨らんでくる緊張感を感じていた。

今は、待つしかない状況であることが、行き場のない張り詰めた空気をさらに濃密にしていた。

009

運営部門長のタケシは、中庭のプレハブに設置された文化祭実行委員会本部から校舎を抜けて裏門に設置された文化祭ゲートに向かうなかで、人で賑わう校内全体の空気がしだいに重くなってゆくような感覚を会場にいる多くのひとたちが覚えてきているように感じていた。

何かが起きそうなことを大勢のひとたちが察しているようにすら感じられ、運営部門の責任者として、これから起きるであろうことへ対処する想定をこれまでに何度おこなってきたかとため息をつきながら、文化祭ゲートである現在の正門に到着した。

本来の正門は、講堂の改修工事で使用されているために、裏門が文化祭の出入り口のゲートになっており、そのゲートは、装飾部門長のマサミチにより、仏思想家バタイユの太陽肛門のイメージに触発され制作された渾身の作品になっていた。元々校門の扉は、分厚い鉄製で監獄の扉を連想するねずみ色だったったが、マサミチはそこに黒いペンキを直接塗り込み地とした上に、カラフルな抽象アートが展開されており、しかも丁寧に「太陽肛門」というタイトルも書き込まれており、そのタイトルをみて怪訝な顔をして通り過ぎる来場者もいたが、丘の上の学校にはありがちなことと思う来場者が多かったようだった。

太陽肛門から校内に入ると、右手奥には、体育館があり、そのさらに奥には本校舎、左手すぐには小新館と呼ばれている4つの教室が入っている2階建ての建物があり、本校舎から体育館前を通り、この小新館まで、屋根付きの回廊があり、太陽肛門から入ってすぐのこのあたりは中央を回廊が横切る小さな広場にようになっていた。

太陽肛門からまっすぐ小さな広場を正面に進むと、都内では珍しいぐらいに広い土のグランドに下りてゆく横幅の広い大きな階段があり、下りたところには、階段に向けて大きなステージが組まれており、ちょうど階段に座ってステージをみることができるように設置されていた。太陽肛門から来場するとこの巨大なステージが正面に見え、そこで演奏されている音楽が聞こえてくるのだった。

010

いよいよだ! 

《かれら》がゲートの太陽肛門から文化祭に突入して来る。と、ゲート前の小さな広場に来るとタケシは、思った。

運営部門の仕事は、字義通り、文化祭の進行を見守り、運営してゆくことにある。文化祭のなかで全体のスケジュール進行に問題がなければ、特に仕事はない。しかし、この後に、大きな仕事というか、直接操作できることではないが、運営部門長として、指示を出してゆく場面が来ることに備え、タケシは、じっとゲートをみつめ、自分がこんな立場にいることを不思議にも思った。文化祭といえば、ジュタらの友人と知り合いの女の子たちを呼んで、楽しく遊ぶ場所だったはずなのに。

面倒な混乱を避けるために実行委委員長は所在不明になっていた。
委員長自ら招聘した山下洋輔トリオの演奏は、音楽室で午後0時40分と午後3時20分の2回行われることになっており、委員長はそこに潜り込んでいるのかもしれない。

《かれら》が入ってきたときに、ゲート前の広場やステージ前が混乱しないように、今演奏しているバンドは十分に気心が知れているメンバーで構成されていた。何が起ころうと演奏し続けるだろう。

《かれら》が入ってきたときの状況を一瞬でも見逃さないように、キャメラマンのススムが、体育館入り口の上にある庇に上り、太陽肛門からグランドのステージまでを絶妙に捉える絶好の位置を確保し、得意のカメラの設置を終えた合図を通りかかった少年に送ってきていた。でも、その合図は、ススムのGFがたまたま通りかかり、彼女に送られたのかもしれないと少年は、緊張した頭の隅で考えた。

ススムは庶務部門のキャメラマンで、文化祭の初日には、制服を脱いだラフなワイシャツ姿で腕には「プロジェクトチーム」と書かれたよく目立つ腕章をしており、大人っぽい風体からもちょっと見には、どこかのマスコミか報道キャメラマンのようにしか見えなかった。当たり前だが、プロジェクトチームというチームは存在せず、ススムのアイデアだった。

タケシが知らないところでも準備は密かにすすめられていた。

校長代行の部屋は使用禁止の正門にもっとも近いコの字型校舎の先端の2階にあるので、その真上にあたる教室では、高校2年の学年で学内では全く目立っていないが学外では激しい政治活動をしている連中に展示を任せてあり、《かれら》が校内に侵入したときには、展示室からいち早く飛び出して2階と3階の同じ位置にある配電盤を機能不全にする役割を担っていた。
フカダは、その展示室のなかで、読みかけの本をめくりながら、いつのまにか引き受けているとんでもない役割が、引き受けたころはけっこう乾いていたのに、時間が迫ってくると、湿気を帯びてきたように感じられるのはなぜだろうと思っていた。配電盤を壊すぐらいのことはどうってことなかったが、この学校のなかで同級生たちと組んでるのは妙な感覚だった。やっぱり俺はお人好しかな。

正面ステージは、ユキオの指示により、横20メートル、奥行き5メートル以上あり、普通の高校の文化祭での野外ステージよりも大きめに設置してあった。正面からは板で隠れて見えなくしてあるステージ下には、文化祭に無理やり機動隊が導入され、機動隊と生徒たちの乱闘がはじまった時のための武器がたっぷり隠されていた。

校長代行や側近の教師たち、また、教職員組合の教師たちの動きを見ていて実行委員会の中枢に伝える動きをする生徒たちも校内の各所に待機し、今かと待ち受けていた。そういう生徒たちのなかには、自分であつらえた武器を服のなかにもっているのもいた。

また、丘の上の学校の反校長代行活動を民主化運動として賛同して(同情に近いか)、密かにサポートに駆けつけてくれている社会活動家たちもいた。

こういう全てのひとの動きを把握している人間は、文化祭関係者にはいなかった。少年も断片的な情報しか得ていなかった。

丘の上の学校のロックバンドでは、ジョニー・B・グッドやジャンピングジャック・フラッシュが定番であった世間とは少し異なり、ブラスバンドの入ったCHICAGOが好まれていた。《かれら》が突入してくる時の曲は、CHICAGOのLIBERATIONが相応しいとステージ上のバンドの面々は考えていたが、タイミングがあうかどうか。

011

《かれら》=ヘルメットを被り武装した反校長代行の先鋭的グループ20名ばかりは、近くの地下鉄駅から隊列をつくりデモしながら午後2時にやってくることが少年たちに知らされていた。

地下鉄駅から丘の上の学校へゆくには二つ経路があった。《かれら》は、人通りのある、都立公園横の広い車道を通る経路は避け、住宅街を縫ってゆく傾斜角度の急な細い坂道を選択していた。

実は、彼らの到着時間や地下鉄駅からの経路は、文化祭実行員会やその関係者のみならず、主な教職員、のみならず、校長代行の側近たちも知っていたようだった。

校長代行は、事前に武装した生徒の一団が文化祭に突入してくる情報を掴んだので、文化祭へ乱入することを防ぐ準備をしていたというアリバイをつくるためだけにガードマンたちを駅のまわりに張らせていた。
それは見せかけであることは、東西にふたつある改札口のうち多くの乗降客が利用する、広い車道へ向かう改札口に人員を集中していたことでわかった。住宅街を通る狭い道につながる、反対側の改札口の警戒はわざわざ緩くなっているようだった。

校長代行も武装した一団の校内への到着を心待ちにしていたのだった。

校長代行は、ガードマンだけでなく、警察にも協力を求め、学校周辺の警備を依頼していたが、武装した一団が現れても、校内に突入するまでは接触しないことを依頼していたようだった。ともかく武装した一団を校内に引き入れ、反校長代行を標榜する生徒たちがいかに反社会的な連中なのかを来場者に見せつけたうえで、一気に鎮圧し、自分の正統性を固めることを考えており、そのためには学校の周囲に配置されていた機動隊の校内への導入要請も入念に準備していた。

反校長代行を主張するグループがヘルメットで武装した、見た目からして一般生徒とは違うごく一部の特殊な生徒であり、平和な場に暴力を持ち込む反社会的な存在に見えれば見えるほど、校長代行は自身の立場と方針が正当化できると考えているようだった。

反校長代行の先鋭グループは、ヘルメットに武装した姿で、堂々と地下鉄駅を降り、ガードマンや警察官が遠くから取り囲むなか、近寄りがたい殺気をからだからほとばしらせながら、15分あまりかかる、高級住宅街の細い坂道を丘の上の学校へと一団となって一歩一歩と足元を踏みしめながらのぼっていった。

丘の上の学校では、いろんなグループと個人たちがそれぞれの思惑を描き、《かれら》の到着をはち切れそうな緊張とどこか不安な期待を持て余しながら、待ち望んでいた。

丘の上の砂時計の上部にあった砂は渦をつくり静かに落ちていた。

【了】 


*参考資料**************************

<1971.10.03 丘の上学園第23回文化祭2日目>

朝早くより、学園の周りに夥しい数による警官の警備体制が見られる。

午後2時15分・・・・
ヘルメットを着装し旗竿を持った、約二十人のデモ隊が「全ての処分撤回、全学集会開催」を要求し、校内に入る。

同20分‥‥
(デモ隊は校長代行に討論を求めたが応じてくれず)
事務所前でのガードマンたちとの乱闘後、事務所より離れる。
この時以後、校長代行はガードマンたちと共に机・椅子で事務所内にバリケードを築き、その中に隠れ続けた。

同25分‥‥
屋外大ステージ前でデモ隊は演説を始め、校長代行出席の討論会を要求する。

同57分‥‥
デモ隊は賛同する生徒たちと再度事務所前に向かうが、事務所側ガードマンたちと乱闘になる。
(事務所側は消火器・皿等を多数投げつけ、生徒たちは旗竿などで応戦する。)


午後3時20分‥‥
引き籠った校長代行の要請により、学外より機動隊が導入 される。
(機動隊導入については、校長代行より文化祭実行委及び教員に連絡なし。裏門から突入してきた 機動隊は学内で、警告なしでデモ隊の排除にかかる。)

同25分‥‥
生徒たちと機動隊のあいだに乱闘が起こり、一般の文化祭参加者が機動隊を外へ押し出し、裏門を締める。

同30分‥‥
機動隊は裏門が生徒たちにより閉鎖されたため、工事中の正門より再度導入される。
裏門あたりで、デモ隊は生徒科担当教員に校長代行との話し合いを求めていたところだった。
機動隊は、裏門あたりの人ごみに突入してきて、グラウンドに追いやった生徒デモ隊や生徒たち、一般参加者までも追いかけ、暴行をはたらき、乱闘が大きくなっていった。
(文化祭実行委は乱闘を止めるため、機動隊と生徒一般参加者の間に入り、十数名負傷した。多くは、乱闘中の出来事だが、機動隊の警棒による打撲が多かった。)

同35分‥‥
生徒たちに多くの負傷者が出始めたのを見とがめ、一般参加者が先頭に立ち、機動隊を学外へ追い出す。

同40分‥‥
裏門そばの小さな広場で生徒主催の集会が開かれ、生徒たちはじめ一般参加者も参加する。

同50分‥‥
校長代行より「午後2時50分に文化祭の中止命令が出た事を(学内に)伝達するよう」と
文化祭実行委代表に指示がある。

午後4時過ぎ‥‥
裏門そばで開かれていた生徒主催の集会は終り、引き続きグランドの大ステージで生徒科担当教師との討論が続く。

同30分頃‥‥
急遽、生徒協議会が開催され、討論会の支持を行い、校長代行との討論会を要求する。

同50分‥‥
大ステージ前の生徒全員により討論会を後夜祭に持ち込むことを確認する。

午後5時15分‥‥
生徒科担当筆頭教員が討論会である後夜祭に出席する。

同35分‥‥
学内の全電源を学校側により切られるが、暗闇の中で討論会は続けられる。

同40分‥‥
突然、学内に乱入してきた部外者右翼により、文化祭実行委員長が暴行を受け、その場に居合わせた生徒の家族でもある医療従事者から治療を受ける。

午後6時20分‥‥
討論会の明日絶対続行を参加者で確認して、解散する。



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