その頃、「祈り」それ自体に言及する書物は稀有に近かった。 もちろんそれらが記述された書物も存在はしていたが、多くの論調は背後にユダヤ・キリスト教の影が強く感じられる内容となっていた。それらは確かに整理され説得力のある内容ではあったが、キリスト教を大前提として語られているに過ぎなかった。 そのようにキリスト教に回収するような特定の立場からではなく、わたしの内的欲求を満足させるような言説が欲しかった。何よりわたしは、その「祈りの手」の祈りという現象のその奥に見え隠れする、彼
はじめに それは一枚のモノクロ写真から始まった。 カトリック系雑誌の一ページだったと思うのだが、修道士のそれと思える「祈りの手」がそこにあった。それは美しくありながらむしろ神々しささえ感じられ、それを生み出す何らかの力がカタチとなってそこにあるように思えた。 この手は一体何を祈っている手なのだろう。素朴にそう思った。あたかも何處へかと放たれているようにも見えるが、その先には何が在るのだろうか、そんな事も同時に思っていた。 その頃のわたしはカトリシズムに強く影響を受けて