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『信じる』

幽霊の正体がわかって、すみっこに体育すわりで膝を抱えてた子とも手をつなぐことができて、
吐きそうな気持ち悪さから始まった昨日までの数日間は、抑えきれなかった思いと涙で浄化されて終わりました。

筋道立てて、理路整然と『それ』を説明するのはとてもむずかしく、私がいったい何をしているのか、何をやろうとしているのかを伝えるには私の実践をシェアするしかないと思っていたところでした。そこにちょうど闇がやって来てくれたといった感じです。
言葉にすると、実際の感情のあばれ具合や抵抗のすごさがぜんぜん表現できていないと思いますが、リアルタイムで『それ』に気づくことができて昨日は涙でグシャグシャになりながら書きました。お読みくださったみなさま、ありがとうございました。

もういいでしょう、という声も聞こえてきそうですが、
もうひとつ、今だからこそこれに関して書かなければいけないと思うことがあります。

前編の最後に、私は『信じる』の意味をわかっていなかったということを書きました。

信じる、には二種類あって、
①『信じる』と『裏切られる』がセットになっているもの
②『信じる』のみで『裏切られる』は絶対にないもの
この二つがあると私は考えています。

当時の私は①しか知らなかったのです。
私は彼女との友情を信じた。彼女の話すことを信じた。彼女が本当のことを話してくれていると信じた。決して疑わなかった。
ごくごく一般的な感情からの行動のように思えます。でもこのとき、私は『彼女を』信じていたわけです。彼女しだいで、私の気持ちもどうとでも変わる、そんなグラグラした不安定な『信じる』です。

彼女は私に本当のことを話してくれませんでした。
=私は彼女に裏切られました。

②の『信じる』は私に軸があります。

私は、彼女のことを信じると決めた私を、信じる。

『信じる』は私の選択肢のひとつであって、それを『する』ということは
私の責任において、私が、私の意思でするのだという立ち位置です。
彼女は私に本当のことを話してくれませんでした。おわり。

私がそう決めて、そうしたのだ。
私が信じると決めて、信じたのだ。
ここには『裏切られた』という被害者感情はありません。

誰かのせい、何かのせい、社会のせい、時代のせい、
やろうと思えばいくらでも私たちはこのたったいま、なにかの被害者であることができます。
悟る必要があるということではないのです。達観するということではないのです。

どこに立つか、どの視点で生きるかなのです。

自分は弱者だと思って生きれば、社会はトゲトゲした灰色のすさんだものでしょう。まわりは敵だらけ、いつもあなたを狙っていて、常に気をはって防衛体勢で生きていなくてはいけない。
私はずっと長いこと、この被害者意識で生きてきたように思います。どこか晴れない気持ちと、世界に対してガルガルした姿勢で。

自分の足で立って、自分で決めて、自分で責任をとる。
ひとつひとつ、自分が主体的に選んでそうなっているのだと、
自分の人生を自分の手に取り戻すことができたら
世界がどうとか、時代がどうとかいつまでもぐずぐず言っていられないことに気づきます。


いいとかわるいとかを超えて、自分の人生を自分でクリエイト=創造していく、そのために
お菓子ひとつ口にするのも、お洋服を選ぶのも
通る道を決めるのも自分だと。
素敵なものをみつけて、これを買うと決めるのも、このお店から、この人から買うと決めるのも、自分なのだと。

信じる者は救われる、は
②で生きてこそ。のような気がします。

昨日あんなにグシャグシャに泣いていた私ですが、
このことは新鮮なままにお届けしたくて書きました。
どなたかの参考になれば幸いです。
お読みくださってありがとうございました。

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