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Longshot For Your Love / The Pale Fountains ライナーノーツ 日本語訳 その3

ペイル・ファウンテンズが最初に契約したレーベル、Operation Twilight代表のPatrick Mooreが、バンドと密接に過ごした1982年の短い期間を回想したテキストです。

The Last Summer Of Love
パトリック・ムーアによるライナーノーツ(前編)
後編はこちら

1982年、私はハックニー区のベックロードにある古びた集合住宅に友人たちと住んでいて、ラドブローク・グローヴにあるラフ・トレードの流通部門で働き、毎日、街を横切って長い地下鉄の通勤を続けていました。私は自分の勤め先がロマンチックでないと感じており、商業サイドよりもアートの側に関わりたかったので、ラフ・トレードの建物というクラブに立ち寄るファクトリーやポストカード、クレプスキュールの担当者と交流するほうがずっと興味がありました。

クレプスキュールを主宰するミシェル・デュヴァルとは2年前に知り合っていて、1982年の1月、彼から英語版のレーベルを立ち上げることを提案されたのです。オペレーション・トワイライト(OT)は、3月17日の 聖パトリック記念日に正式に誕生しました。振り返ってみると、私たちの事業がフォークランド紛争と同じ時期に始まったのは不吉ですね。どちらも無茶な冒険でしたが、片方は、より致命的なものでした。会社のメンバーには、ベックロードでの同居人デイブ・ベイカーがいて、OTのハウス・デザイナーになりました。マドレーン・グローヴスは広報担当、彼女のいとこのレイチェル・ルーニーは「会計士」でした。ロブ・ホールデンと彼のバイクは、便利な配送手段になってくれて、彼の適性がオペレーション・トワイライトのスタッフの外出の雰囲気をつくりました。マドレーヌとレイチェルは、ベックロードの私たちの家の向かいに、「Foetus On Your Breath」で有名なジム・サーウェル(※1)とギャレス(※2)(「パトリック・ムーアはここで眠れないと言う(Patrick Moore Says You Can't Sleep Here)」という歌を作ったマイクロディズニーのマネージャーをしていた)と住んでいました。さらにその先にはジェネシス・P・オリッジ(※3)とその若い妻ポーラが住んでおり、角を曲がったところには23スキドゥー(※4)が住んでいました。その年の暮れには、アズテック・カメラのロディ・フレイムが私たちの家に引っ越してきました。それは「コロネーション・ストリート」(※5)のインディーランドであり、真夜中の横断歩道を渡ったり、ドラッグで大酩酊したりするピクニックつきの路上のソープオペラでした。

※訳注1:「Foetus」はジム・サーウェルによるニューウェーブ〜インダストリアル・プロジェクト。作品ごとに毎回名義が異なる。
※訳注2:ギャレス・ライアン(Gareth Ryan)。ラフ・トレードのディストリビューター。1982年にカブキ・レコードを立ち上げる。
※訳注3:Genesis Breyer P-Orridgeは、スロッビング・グリッスル〜サイキックTVのメンバー。
※訳注4:23 Skidooは、1978年結成のインダストリアル・ファンクバンド。1982年のデビューアルバム「Seven Songs」はジェネシス・P・オリッジのプロデュース。
※訳注5:イギリスの連続テレビドラマ(1960年から続く長寿ドラマで、ギネス世界記録に登録されている)。制作はグラナダ・テレビジョン。

ミシェル・デュヴァルと彼のアメリカ人パートナー、マイケル・シャンバーグ(※6)とともに、アラン・ホーン(※7)、リチャード・カーク(※8)、ジョン・フォックス(※9)、リチャード・ジョブソン(※10)の4人が会社の株主となり、私は社長になりました。最初のリリースは、ポール・ヘイグのシングル「Running Away」とタキシードムーンのアルバム「Divine」で、ヴァージニア・アストレイや ジャザティアーズのアルバムも出そうとしたのですが、資金不足で挫折しました。しかし、オペレーション・トワイライトのクルーがベイカー街のホテルの地下に降り、ディスロケーション・ダンスをサポートするグループを見たとき、すべてが変わったのです。バラクーダ・クラブを装った悪趣味な鏡張りガラスの地下室「ボールルーム」では、5人のリバプール訛りの若者がシャッフルされて彼らのセットを行っていました。彼らは皆、とても若く、少し私たちに似ているように思えました(私たちはこの夏、お互いに似てきました)。そして、「ペイル・ファウンテンズ」という素晴らしい名前を持っていたのです。彼らは短パンにスカウトハットをかぶり、「Walk On By」のカバーと、オリジナルのかなりグルーヴィーな曲を歌っていました。私たちは、素晴らしいと思いました。私は自己紹介をし、OTのためにシングルを録音することを提案しました。彼らは、私の日記の「リードシンガーがすごくいい」という注釈に興奮していました。

※訳注6:Michael Shamberg は、短命に終わった「クレプスキュール・アメリカ」代表。ファクトリー・レコードの北米担当でもあり、ニュー・オーダーのいくつかのMV監督も務めた。
※訳注7:Alan Horneはポストカード・レコード主宰者。
※訳注8:Richard Kirkはキャバレー・ヴォルテールのメンバー。
※訳注9:John Foxxはウルトラヴォックスのヴォーカリスト。
※訳注10:Richard Jobsonはスキッズ、ジ・アーモリー・ショーなどのメンバー。

5月16日、マイケル・ヘッドがライム・ストリート駅でマデリンと私を出迎え、私たちはクリス・マカフリーの家(ベックロードとあまり変わらないリバプールの家)に車で向かいました。私たちは地下室に案内され、そこには間に合わせのリハーサル室が設置されていました。ペイル・ファウンテンズは私たちのためだけにセットを演奏しました。私は写真を撮り、クリスのお母さんはサンドイッチを作ってくれました。私たちは計画されたシングルのことと、アラン・ホーンかエドウィン・コリンズがプロデュースする可能性のアイデアについて話し合いました。その頃、ペイリーズ(何でも略すリバプールでは、こう呼ばれていました)はネイサン・マクガフにマネージメントされていました。詩人ロジャー・マクガフの息子でバンドのパーカッショニストだった彼は、ファクトリーのオーラを放っていました(ACRのようなファクトリーのバンドがしていたショートバック&サイドの髪型は彼の発案だと聞かされました)。私たちはペイリーズの行きつけの場所を紹介されました:ビクトリア調のパブ「フィルハーモニック(Philharmonic)」や、誰かの充実した自宅を改造したナイトクラブ「カサブランカ(Casablanca)」、ティアドロップス、ワウ!ズ、バニーメン、影の興行主のような存在のビル・ドラモンドらがそこら中にいる、リバプールのバンドのたまり場となっていたワインバー「エブリマン・ビストロ(Everyman Bistro)」などです。

翌5月17日、OTはペイリーズに、地元のスタジオで「Always On My Mind」「Just A Girl」「Lavinia's Dream」 の3曲を録音するための資金を払いました。リミックスが必要だったので、私たちは6月2日にリバプールに戻って、この新しい友人たちと交流し、リバプールのライバルであるインディー都市、マンチェスターに移動してプルート・スタジオでリミックスしました。バイオリン、ピアノ、パーカッションのトラックを追加すると、私たちの耳にはそれらの曲が傑作のように聞こえ始めました。そして、新しいレコーディング・アーティストを紹介する「Twilight and the Concerts」を計画し始めました。OTのプロモーション・テロリストであるマッドとロブによって、NMEはオペレーション・トワイライトの記事を掲載し、フェイス誌もそうしました。そして、ジョン・ピールは私たちが送ったペイル・ファウンテンズのテスト・プレス盤を放送しました。7月にはレコード・ミラー誌がバンドの記事を掲載し、ジョン・ピール・ショーがバンドをセッションの録音に招待するために電話をかけてきたのです。

19日、ペイリーズの集団はベック・ロードに到着し、地元の理髪店を訪れた後、BBCのライム・グローヴにあるスタジオ4へ向かいました。その頃、ダイアグラム・ブラザーズから準メンバーとして参加していたアンディ・ダイアグラムが、バンドのためにトランペットを吹いてくれました。セッションはうまくいきました。翌日、路上でサッカーをした後、ペイリーズが2度目のロンドン公演を行うビクトリアのヴェニューに車を走らせました。その夜、会場はリチャード・ジョブソン、ジョニー・フィンガーズ、スクリッティ・ポリッティ、アズテック・カメラなどインディーズ界の著名人でいっぱいでした。緊張した新加入のレイチェルに紹介されたバンドは、エモーショナルなセットを演奏し、「Walk On By」のアンコールで幕を閉じました。

しかし、ペイリーズのシングルは、私たちがデザインした複雑な(そして非常に高価な)星型の型押しスリーブのせいで、まだ発売されたばかりでした。私はラフ・トレードに、このシングルがチャートに上がるよう宣伝担当を雇うよう説得しようとしました。業界から非常に注目され始めていたので、マッドからネイサンがEMIから2万ポンドの契約を持ちかけられたと聞いて、私はそれを真に受けましたが、それはペイリーズのいたずらの一つでした。でも、それは先見の明のあるジョークで、すでにサメが回りをうろつき始めていたのです。ペイリーズが無邪気だった短い夏は終わりを迎えようとしていました。ペイリーズは私にマネージャーになってくれないかと頼み、7月10日にリヴァプールに着くと、様々なA&Rマンがバンドに言い寄って来ましたが、彼らのほとんどは驚くべき無能さでその仕事を遂行しました。 ペイリーズと私は、彼らをからかいました。 しかし、そのうちの一人、ヴァージン・レコードのロブ・コリンズ氏は思いやりがあり、誠実なように見えました。 ペイリーズは彼を気に入り、私もそうでした。私たちは、バンドが徐々にインディーランドを離れ、ヴァージンに引き寄せられるような計画を立て始めました。当時はヴァージンはまだ信頼性があり、デフォルトでインディーズであるように見えたのです。ロブ・コリンズと彼の上司サイモン・ドレイパー(※11)との会談で、スタジオ費用を負担することに合意しました。ロブ・コリンズは8月21日にリバプールにやってきて、エブリマンでバンドに会いました。マイクと弟のポールはドラッグで遅れて到着しました。翌日、回復したバンドはクリスの両親の地下室で再び曲を演奏しました:もしかしたら、まったく回復してなかったのかもしれません。私の日記にはこう記されています − 「マイクの声はとても変だった」。翌日、私たちはマンチェスターのプルート・スタジオで、夜通し、さらに曲をレコーディングし続けました。

※訳注11:Simon Draperはヴァージン・レコードのA&R。多くのバンドを見出した。

後編に続く


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