空っぽのスケジュール帳から人生に焦り始めた話。

スケジュール帳の9月のページを開いてどん引きした。
土日祝日の欄が、信じられないほどに様々な予定で埋め尽くされていたからだ。 

8月の終わり頃に手帳を開いた時の状況は真逆だった。
プライベートの予定についてはほぼ見渡す限りの白紙状態。外出や飲み会、まして散髪・歯医者などといった事務的な予定もなし。
ところどころに点在していたのは「F1ベルギーGP」「F1イタリアGP」等、F1グランプリの決勝日の予定の文字のみ。
およそ世界最高峰の自動車レースの開催日を確認する以外に、「スケジュール帳」という機能を何も果たしていないただの小冊子がそこに佇んでいた。
まあF1のテレビ観戦がプライベートの予定と言えないことはないのだが…、このままでは、最近開発面で著しい改善を重ね、優勝争いに絡むほど戦力の向上したレッドブル・ホンダの健闘をただ見守るのみで9月が終了してしまう、そんな様相を呈していた。 

ちなみに唯一9月に立てていた予定として、三連休の初日に彼女と福岡のお祭りに行く約束をしていたのだが、先日彼女が男を作って別れを告げてきたことによりご破算になってしまっている(そりゃそうだ)。


…と元カノとの悲しい別れを軽いノリで書いたが、このことが自分の中の変なスイッチを入れるきっかけになってしまった、なんてことは思いたくないのだけど。 


私は普段から、それほどアクティブな人間ではなかったはずなのに。
土日に家から一歩も出ずカーテンすら開けずに月曜日を迎えても、別段何も思わずに仕事モードに移行できる人間だったはずなのに。
「このままでは生きる意味のないまま、流れゆく日々に過ぎ去られる虚しい人生を過ごすことになってしまう」
そんな恐怖にも似た危機感が私を支配し始めた。 


次の日から、ありえないほどがむしゃらになって「飲み会」「イベント」「サークル」など、自分が参加できるあらゆる「予定」を探し始めた。
バドミントンのサークルの仲間に会うたびに、「今度みんなで予定合わせて飲みに行こうよ」という言葉をロボットのように発し続けた。時折サークルに紛れ込むネズミ講の誘い子が似たような台詞で勧誘活動を行い、皆から煙たがれているが、私はネズミ講ではないので飲み会の予定は次々と立っていった。
そうこうしているうちに飲み会だけでなく、なぜか大人数でハウステンボスに行ったり、来月には沖縄旅行に行く予定まで立ってしまった。旅行と呼べるものなんて、大学の卒業旅行と社会人になって一度だけ行ったバンドの合宿、あと実家への帰省くらいしかしたことないのに…。
普段は絶対に声をかけない仕事上だけの付き合いの人にも、要件を話し終えたあとに、「ついでの話なのですが…」風を装って飲みの誘いをした。飲みの場でプライベートな会話が続く未来が1ミリたりとも想像できない人にまで声をかけてしまった。けれど一瞬驚いた反応をされたあと、「りんくすさんからお誘いなんて珍しいですね」と快諾してくれた。私という存在がここにいてもいいんだよ、と居場所を与えてもらっているような感覚になり、なんだか嬉しい気持ちになった。 

それだけでは飽き足らず、先日異動してチームを離れた上司に誘われた勢いそのままに、東京マラソンの一般応募の抽選にも申し込んでしまった。2020年3月の「予定」である。半年先に何らかの目標となるイベントを設定することで、漫然と過ごしがちな日々の中でコツコツと努力を重ねる意義が欲しかった。こればかりは約12倍の当選確率をくぐり抜けなければ参加することは叶わないのだが、マラソンにしても飲み会にしても、ここ最近の私はとにかく「生きる意味」と、その下層に位置する「自分が存在しても良い意味」に異常なほどに血眼になっていた。 



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先の異動した上司、会社からの突然の辞令で急に福岡を離れることが決まったのだが、送別会の際にポツリと言っていたことを思い出す。 

この時代、何が起きるか本当にわからない。この会社が明日潰れたとしても何も不思議なことじゃない。問題はもしそれが起こった時、自分は何をして生計を立てていくのか。
人は生きるためのお金を得る為に働いているだけだし、もしかすると今の仕事は君たちが望んで始めた仕事ではないかもしれない。会社のために働くのは素晴らしいことだし、管理職の立場としてはそうあってほしいが、「人生のプランB」を携えておくことは今の御時世では絶対に必要なことだ。
そしてそれが、自分自身の本当にやりたいことを軸にした仕事であれば、人生が明るくなる。
たとえプランBに移行しなくても、そのことについて考えることで今の仕事に張り合いが生まれる。
だから自分自身の本当にやりたいことについて本気で考え続けて努力するべきだ。 という趣旨のことだったと思う。 

プランBについて聞かれた時、私は適当な考えをその場で見繕って発言しただけで、何もまともな答えを出すことができなかった。
上司は私の話を最後まで聞いてくれたけど、必死に場を繕おうとすればするほど、舌が永遠に空回りをし続けていくような感覚だったのを覚えている。そんな自分がなんだか中身のない空っぽの人間のように思えてすごく恥ずかしかった。
一方で他の先輩たちは具体的な職種まで即答、といった感じで、本当に本心で今の会社ではできない「やりたいこと」を語っていた。
私にはそれが、「生きる意味」を持っている人の力強さ、まっすぐさに思えて、比喩ではなくキラキラした姿に見えた。
私のやりたいこと、生きる意味は、まだよくわからない。 

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もう一度、手元のスケジュール帳を開く。
飲み会やサークル、旅行の予定でぎっしりと埋め尽くされている。
こんなはずではなかった…休みの日はもっとのんびりして過ごしたい…私は陽か陰で言えば間違いなく陰の人間なんだ…こんなにアクティブになんて過ごせない…帰りたい…。
でも、この日々を駆け抜けたあとに何が見えるんだろう。 

たかが飲み会、たかが旅行だとは思うけど、こんなふうに誰かと過ごすことに自ら積極的になったことは今までの人生でなかった。沖縄になんて初めて行くし、旅行の行程を立てたりその手配をすることだって、今の自分にとってはすべてが新しい。
生きる意味とか本当にやりたいことだなんて大層なものにたどり着かなくても、何か楽しいこと、嬉しかったことの積み重ねが、自分という人間を少しずつ豊かなものにしてくれるのではないか、と思う。
キャパオーバー気味に組んでしまった一連の予定を終えたあとは、少し長めの休憩期間を入れたいけれど。 



子供の頃に描いていた29歳って、もっとしっかりしていたはずだった。私自身が一般的な29歳と比較してだいぶ空虚な人間である説が濃厚なのだけれど…。でもそんなものなのかもしれない、と割り切ることにする。
人生の周回遅れだと揶揄されても、私は私のペースで日々を過ごし、ときに衝動的に焦りを感じながら、少しずつ歩みを進めていきたい。

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