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生まれ変わるなら?①

あんまり大きい声では言えないけれど、実は小さい頃からなかなかに辛い日々を過ごしてきた。
遊びに行きたくて「私も入れて」なんて言っちゃえば「いやだ」の一点張り、なんとか予定を取り付けたと思えば他の子と遊ぶからドタキャン。学校からの帰り道はいつも1人だった。
「それ、いやだ」「そんなことされたら悲しい」と言葉に出す術を知らなった私は、ずっと下を向いていた。親指をこぶしの中に隠しながら、涙も痛みも隠していた。
今思えば、よく生きてたなって。
それでも、私はそんな人生をなんだかんだ好いている。
辛い思いの分だけ優しくなれる、なんていう言葉があるが、それを期待しているのかもしれない。辛い過去がある人は絶対に幸せになれる、なんていうある種の願いみたいなものを信じているのもあるかもしれない。
とにかく私は、痛みを伴う過去に蓋をすることなく生きていたいと思うのだ。
そして、また同じ思いをしたときには「痛い」と言いたい。同じ思いをしている人には「それ、いやだ」って言葉を授けたい。
蓋をしてしまえば気づけないかもしれないけど、開けていれば幾分かは敏感になれる気がする。
もちろん、敏感になる分痛みは増える。
ふとした瞬間に、少しだけ古傷が痛むことはしょっちゅうだ。でも、それにはもう慣れっこだ。痛くても、私には音楽があるから。私はもう大人だから。大丈夫。
私の痛みなんかより、私の大切な人が痛くないように生きる方がよっぽど大切だ。
そんな野望のような、願いのような、想いを抱きながら、私は日々を生きている。

本題に戻ろう。
私が尊敬し、愛してやまないバンドであるMrs. GREEN APPLEの楽曲、ケセラセラの曲中にある「生まれ変わるなら? 『また私だね』」という歌詞。
先日放送されたSONGSで、作詞した本人である大森さんは「自分がそう思えないから描いた」と言っていた。
私はどうだろう。この人生を嫌いだと思ったことはない。
でも、もう一度この世に生を受けたとき、私は全く同じ人生を歩みたいのか。そう思えるのか。

そんな想いを胸の内にそっと置いて、いつも通りヘッドフォンを装着して大学構内を歩いていたある日、ショッピングサイトからのセールのお知らせしか入っていない私のメールボックスに1通のメールが入った。
「代金支払いのお知らせ」
ダイキンシハライノオシラセ…?何の?何も買ってないが?
とりあえず図書館に入り、課題をする準備をしながら恐る恐るメールを開いた、私は悲鳴を上げた。人間、びっくりすると本当に「ひぇっ」という声が出るらしい。
なんと、ほぼ諦めていたMrs. GREEN APPLEのチケットトレードが成立したという。
私、ミセスを生で聴けるんだ。そう分かった瞬間、私は図書館の机に広げていた荷物をすべてカバンに突っ込んで銀行へ走り出した。あんなにもワクワクしたのは何気に生まれて初めてかもしれない。

普段はやるべきことを先延ばすでおなじみの私が、メールを見て30分後には支払いを終えていた。いよいよ何処かのJAM’SさんがDear JAM’Sの想いを込めて出品してくださったチケットが、私のものになった。
ドキドキ、ワクワク、そしてティースプーン1杯分の緊張。

それからの約2週間は、本当に一瞬だった。
どんなに痛いことがあっても、いやなことがあっても、「私にはミセスのライブがある」と思うだけで自然と目線も気持ちも上を向いた。
完全に沼にハマっている自覚はあったけど、ここまでミセスを好いているとは思っていなかったから正直自分でも驚いていた。

ゼンジン未到シリーズという、ミセスのライブの中で多分1番歴史あるライブ。それも今回の「ゼンジン未到とヴェルトラウム~銘銘編~」は、初めてのスタジアムツアーだ。
小学5年生の夏に出逢い、昨年の7月にテレビで再会して以来、約1年間本当に毎日聴き続けた。冠模試を受けに行く電車の中でも、体育祭の準備でほかの係と喧嘩した帰り道も、共通テストの日の昼休みも、引っ越してきて初めて過ごした1人ぼっちの夜も。
いつだって私の背中を撫で、一緒に1歩踏み出し、眠りにつけるまで隣にいてくれた音楽が、目の前で演奏される。信じられなかった。

日に日に増していくワクワクと、「ずっとライブ前だったらいいのに」という気持ちと共に迎えた当日。
雨予報だったなんて嘘みたいな快晴の青空の下で始まった、「私の夏」。
「生まれ変わるなら?」という疑問にどう答えたらいいのか。
私は私の人生を愛せるのか。
次回のnoteですべて綴らせてもらいます。


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