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もう下校できない

朝起きて、通学する。
夕方疲れて、下校する。

そんな日々はもう二度と来ない。今日、下校する彼女らと反対側方向へ歩いた。友達とお酒を飲みに行くために。


今日の予定は晩から始まる友達との飲みだけだったので、昨夜は夜更かししていた。ちょっとのお酒と紅茶を飲みながら、ネットサーフィンしたり音楽を見つけたり本を読んだりして、本当に気ままな幸せな時間で夜を果たした。静かで、私だけの部屋で、デスクの前で、椅子の上に体育座りで、自分の興味だけに引っ張られて夜を進める。この時間に私は救われ続けているし、これから先もきっとそうだ。ここで出会ったあのバンドも、あの言葉も忘れない。夜の孤独に救われている。
徹夜なんてしたこともなかった小学生の頃、寝ている間に時計の針が回るのは本当に1周だけだったかと、ずっと疑っていた。もしかしたら、9時間と1周、21時間分も寝ていてその間大人だけが活動しているんじゃないかと。その間の時間は、大人たちは何をしているのだろうと、そんな想像もしていた。大人だけのパーティーがあるのか、いつか自分も参加できる日が来るのか、そんなことも思っていた。高校1年生の定期テストの勉強で初めて徹夜したとき、夢物語など忘れていたけれど、そのときになって思い出して、大人の12時間が存在しないことが証明されてしまった虚しさがあった。大人は寝ている時間が短いだけで、時計の針は半周しかしていなかった。
カーテンと窓の間が少しだけ明るくなって、もう寝ることにした。不健康への少しの罪悪感と朝まで踏破した達成感を抱え込んで、ベッドに滑り込む。こういうときだけ、すぐに眠りに落ちる。
目が覚めると、隙間の光は強くなっている。夢でよかった。スマホで時間を確認すると、正午過ぎだとわかる。でもまだ眠いから、まだベッドからは抜けられない。目を閉じてまだ大丈夫。また目が開く。現実ならよかったのに。2時半、トイレをきっかけにようやく動き出す。こんな時間だから、カップラーメンで腹を満たすだけ。今日の時間だけ確認して、低速モードで身体に入れる。電車の時間を調べると、まだ少し余裕がある。もう一度、ベッドに横たわる。幸せをかみしめる。このときに見るYouTubeは、夜中に見るそれとは異質で、ジャンクフードのようなものだ。なんとなく見て、時間とデータを垂れ流す。家を出発する30分前になると、突然焦る。飛び起きて、着替えて、髪を整えて。女性が服を決めるのに時間がかかって遅刻する、みたいなたとえ話ある。それを聞くたびに、女性に同情してしまう。「前日に決めておけよ」みたいな論があるけれど、服とメイクを含めてお出かけなのだから、前日に決めたら興ざめする。お出かけ中に眠るやつがいるか。お酒を飲むだけだから持っていくものが少なくて、やっぱり間に合った。
駅に向かって歩く途中で、小学生とすれ違う。微笑ましい光景のはずなのに、虚しさしかない。同級生と再会したときに、距離を感じることはたびたびある。これは、方向だ。今日も1日学んで友と楽しく帰る彼女らと、数時間前に起きて友と酌み交わす私が同じ道ですれ違う。奇しくも、これから会うのは小学生のときに、一緒に帰っていた友達だった。距離の違いよりも、方向の違いに気づくことの方が酷なことだと思う。それは、友達や恋人との別れの瞬間に悟るアレのようなもので、方向を合わせるには距離を縮めるよりも努力を要する感じるから。
アルコールを知らなかった私たちには、恥ずかしさがあってせいぜい20分で移ってしまうような話題もある。でも、アルコールを酌み交わし、酒場という場所でなら、ずっと話していられることだってある。アルコールで記憶が薄くなったり、なくなったりすることがあるというが、私はむしろ逆で印象的に残っていることの方が多い。あの店のあの席で、何を飲みながら話したか覚えてしまう。それがいいのか、悪いのか、それはわからないけれど。2人とも明日の午前に何も予定はなかったから、朝まで飲むことにした。小学校だけ同じで、それ以降の道は彼とは違っていた。だけれど、好きなものや考えが共通することがあると、それだけで報われた気持ちになった。彼は中学受験をして、それからもずっと、背中を追いかけている気分だった。そんな彼の内側と合流できたことが、誇らしかった。朝まで外で飲むのは初めてだった。夜と朝が半周で繋がっていることを証明した中学生のときのように、日が昇るまで人がいる場所を証明したみたいだった。
明るくなって、なんとなく1駅分だけ歩いた。そのときにはもう酔いよりも、睡魔に負けそうで必死に足を動かした。何を話したか、今はもう覚えていないくらい。電車に乗ってそれぞれ帰ったけど、帰り道に何を聞いていたとか、どんな具合だったか、もう覚えていない。なんとか、昼過ぎに会う予定だった友達宛てに、先に謝罪のメッセージを送った気がする。もうひとつだけ今思い出せることは、その帰り道にもすれ違ったということだ。最寄駅から家までの道で、小学校に通学する小学生の列とすれ違った。また、すれ違った。元気にあいさつをする彼らを横目に、目をこすりながらなんとか家に辿り着こうと脚を進めた。
きっと、私は今も彼らとすれ違っているままな気がする。