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庵野秀明とマスイメージとしての「庵野秀明」~映画「式日」批評~

0.この文章でやりたいこと

 実写映画『式日』は庵野秀明自身が、マスイメージとしての「庵野秀明」、ヱヴァの監督としての「庵野秀明」を読み込んで作品を評する視聴者を批判したものだということについて語ります。

1.アート作品としての『式日』

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 『式日』は2000年に庵野秀明監督によって作られた二作目の実写作品です。

「不幸な家庭と過去の体験に絶望し、現実世界を隔離して生活を送る少女の孤独で病的な精神世界の変遷を、非常に芸術的な映像で描き出した作品」であるこの作品は、庵野監督が普段制作する『新世紀ヱヴァンゲリオン』『シンゴジラ』といった大衆向けのエンターテイメント作品とは種を異にしたものとなっています。

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 庵野が『式日』について「『100人中1人が、この映画を観て良かった』と思える映画作品作り」を目指したものであると言及しているように、この作品はエンターテイメント作家、庵野秀明による唯一のアート(芸術)作品となっています。

 一般に、娯楽性の高い、人を楽しませるために作られるエンターテイメント作品とは違い、アート作品は製作者の強いメッセージを表現するために作られます。

 では、アート作品である『式日』はどのようなメッセージを伝える為に作られたのでしょうか?

 僕はこの作品が『庵野秀明による、「エヴァの庵野秀明」を読み込む視聴者批判』をメッセージとしてもつと考えています。

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2.『式日』の物語

 それを話す前に、まず映画『式日』の物語について説明します。

 『式日』は庵野秀明の故郷、山口県宇部市を舞台に、映画監督として成功を収めたものの創作意欲を失ってしまった男と、親から愛されずに育ち、ヱヴァンゲリオン的妄執に取りつかれた女との1か月間の交流を描いた作品です。

 ヱヴァンゲリオン的妄執に取りつかれ、延々と「誕生日の前日」を生きる女に元映画監督の男は興味をもち、彼女を題材とした映画を撮影するようになります。

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 男と女が出会ってから女が母親と再会するまでの一か月間が、時々挿入されるヱヴァフォントによってカウントダウンされていくことで、物語が進行していきます。

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 しかし僕は『式日』のこの物語自体に大した意味はないと考えます。つまり、この物語は『庵野秀明による、「エヴァの庵野秀明」を読み込む視聴者批判』というメッセージを映画という媒体に落とし込むために持ってきた装飾物、書き割りでしかありません。

 僕がそのように考える理由は2つあります。

 第一にストーリーそのものは極めて凡庸であるということです。サイコスリラー、心理主義、親に愛されなかった人の苦悩や葛藤といったテーマはそれこそ庵野秀明が『新世紀ヱヴァンゲリオン』で一つの完成形を提示していますし、1990年代に大きく広がりを見せたAC(アダルトチルドレン)ブームの言説で盛んにそういったテーマは用いられています。

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 第二に物語内の舞台や登場人物は全て入れ替え可能であり、それらの設定を作品の中で用いる必然性がないということです。この映画で主要な役割を演じる男と女にはそもそも名前がありません。この作品の舞台として男が身を寄せる宇部市も、「過去に第二次産業で繁栄した郊外」であればいくらでも代わりがききます。男が宇部市に回帰する理由も「創作意欲を失った」という抽象的なもので、「事業で失敗した」「離婚して家を失った」といった風にいくらでも書き換え可能です。

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 『式日』の物語自体に大した意味はありません。この映画は「庵野秀明が作った作品」だからこそ、「エヴァの庵野秀明の作品」だからこそ初めて意味を持ちます。

 言い換えるならば、この作品は視聴者側がマスイメージとしての「庵野秀明」、ヱヴァの監督としての「庵野秀明」を読み込むことで初めて意味を帯びるのです。

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3.『式日』にこめられたメッセージ

 ここからは『式日』にこめられた『庵野秀明による、「エヴァの庵野秀明」を読み込む視聴者批判』のメッセージについて考えます。

 繰り返しになりますが、この『式日』という映画は視聴者側が「エヴァの庵野秀明」というマスイメージを読み込むことで初めて成立します。

 内容もなく、極めて冗長で退屈なこの映画を視聴者が見続ける理由は、ひとえに「エヴァの庵野秀明」の作品だからです。

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 ではこの作品にこめられた『庵野秀明による、「エヴァの庵野秀明」を読み込む視聴者批判』とはどのようなものでしょうか?

 結論から言うと、庵野はこの作品によって、視聴者が自分の作った作品を「エヴァの庵野秀明」を読み込むことで評することの暴力性を暴露しています。

 僕はその根拠が『式日』の特殊な構成にあると考えます。

 映画『式日』はかなり特殊な構成を持っています。全編2時間7分の内、開始からおよそ一時間半の間までは男と女以外の人物が一切登場せず、ただひたすらに二人の交流が展開されます。

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 そしてここで強調したいのは、『式日』の二人の交流の部分では『新世紀ヱヴァンゲリオン』に見られる物語構造が意図的に何度も反復されるということです。

 『新世紀ヱヴァンゲリオン』では、碇シンジがヱヴァに乗る意味に煩悶して「病み」→第三新東京市から「逃げだす」が→レイやアスカを助けるためにヱヴァにもう一度乗り、ゲンドウやミサトに「承認」されるということが物語構造の一つのテンプレートになっています。

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 それと同様に『式日』では妄執に取りつかれた女が「病み」→男と一緒に暮らしているビルから「逃げ出す」が→寂しさからビルに戻り、男に「承認」されるという物語構造が反復されます。

 僕は庵野は意図的にこの特殊な構成を採用したのだと考えています。庵野はまさにこの特殊な構成によって、視聴者が自分の作った作品を「エヴァの庵野秀明」を読み込むことで評することの暴力性に自覚的になるように仕向けています。

 どういうことでしょうか。先述した通り、『式日』の物語自体には大した意味はありません。まして二人の1時間半に及ぶ交流の場面ではなおさらです。登場人物、宇部市という舞台、ストーリーは全て入れ替え可能で凡庸な書き割りでしかありません。

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 しかし、「エヴァの庵野秀明」を経由して庵野の作品を読み解く視聴者はその意味のない物語から何かしらの意味を受け取ろうとします。『新世紀エヴァンゲリオン』で「S²機関」や「ガフの部屋」といった意味ありげに見えて意味のない設定を読み解くことに慣れた視聴者は、そのようなエヴァンゲリオン的視点で『式日』に接してゆきます。

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 しかし、一時間半に延長され、何度も反復されるエヴァンゲリオン的物語構造を見ることで、視聴者は次第に「エヴァの庵野秀明」を読み込むことの意味の無さに気づいていきます。

 それと同時に、視聴者は自分が「エヴァの庵野秀明」を前提として『式日』に触れていたことに気づきます。視聴者は庵野の作った作品そのものではなく、マスイメージとしての「庵野秀明」を前提に、庵野の作った作品を耽美しているということを『式日』は暴きます。

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 「エヴァの庵野秀明」の作った作品だからとにかく素晴らしい、「エヴァの庵野秀明」の作品だから意味があるに違いないといったマスイメージ、そしてマスイメージを内面化して作品を評する視聴者の暴力性を、『式日』は間接的に批判しているのだと僕は考えます。

 実際、『新世紀ヱヴァンゲリオン』の後に作られた作品群(『彼氏彼女の事情』『ラブ&ポップ』『キューティーハニー』『流星課長』etc...)そしてこの『式日』も「エヴァの庵野秀明」をプロモーションとして用いています。どの作品も、内容を吟味するよりも先に「エヴァの庵野秀明」の作品であるというパッケージングが先行しています。

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 作品の内容は二の次で、「エヴァの庵野秀明」だからと制作した作品がもてはやされ、マスイメージによって「褒める準備」が完成してしまっている。そのことはきっと当時の庵野監督自身にとって辛いことだったのではないでしょうか。

 だからこそ、僕は『式日』を『庵野秀明による「エヴァの庵野秀明」を読み込む視聴者批判』をメッセージとしてもつとするのです。

4.結論:「エヴァの庵野秀明」というマスイメージ

 以上、

・映画『式日』はメッセージの込められたアート作品であるということ

・そのメッセージは『庵野秀明による、「エヴァの庵野秀明」を読み込む視聴者批判』であるということ

・『式日』の物語自体はそのメッセージを伝えるための書き割りであり、非意味的であるということ

・『式日』の非意味的な物語によって、視聴者は「エヴァの庵野秀明」を先行させて作品を評する暴力性に気づくということ

を述べてゆきました。

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 誤解しないで頂きたいのですが、僕が「エヴァの庵野秀明」というイメージを捨て、純粋な作品として庵野の作品に向き合えといいたいわけではありません。

 なぜなら、「エヴァの庵野秀明」という先入観を抜きに庵野の作品を見ることは不可能だからです。ただ作品に先行する「エヴァの庵野秀明」というマスイメージの暴力性に、自覚的になることができる作品として僕は『式日』を解釈しています。


5.おまけ:マスイメージと『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

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 同じく宇部の登場する『シン・エヴァンゲリオン劇場版』においても「エヴァの庵野秀明」というマスイメージを考えることは重要であると思います。

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 例えば批評家の宇野常寛は、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の成功の根拠を作品それ自体に置くのではなく、ソーシャルメディアを使った「エヴァの庵野秀明」のマスイメージ操作にあるとしています。

 鬱、安野モヨコとの結婚といった庵野秀明の人生経験や『プロフェッショナル』で放送された作品に懸ける思いといったものがマスイメージとして流布し、それを参照しながら僕たちが『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見ていることは否めません。

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 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』成功の要因は、内容ではなく作品の外部の印象操作であると一口に言うことは出来ませんが、「エヴァの庵野秀明」というマスイメージの影響力はそれだけに強大であるといえます。