ニ字姓と歴史の皮肉(2):日本と中国の奇妙な関係
●朝廷の命令で地名が二字に
名字は地名に深い関連がありましたが、その名字のもとになる地名が、奈良時代に朝廷の命令で二字に変えさせられていたのです。和銅六年五月(713年)、元明天皇(661~721)のときです。[*1]
これを知って、長年の謎がようやく解けました。「大和」をどうして「やまと」と読むのか、「和泉」がどうして「いづみ」なのかずっと疑問でしたが、変わった読み方には理由があったのです。
そして二字の地名なら何でもいいというわけではなく、優れて、美しく、縁起のよい文字を使う必要がありました。美麗な地名にするためなら、地名の語源とかけ離れた「あて字」でもかまわないというのです。
この国策にしたがい、「林」は「拝志」に改められ、「牟邪志(牟射志)」も「武蔵」に、そして読み方も濁音のムザシから清音のムサシに変わったのだそうです。[*3]
ずいぶんと乱暴な話ですが、とにかくこれが姓の二字化につながっていくのです。次はニ字名の起源についてです。名の二字化はいつ頃から始まったのでしょうか。
●二字名の起源
『名前の日本史』(紀田順一郎著)によると、大和時代には美称や尊称がつけられたので、名前は長いのが普通だったそうです。[*4]
天鈿女命も長めですが、息長足姫尊になると、かなり長くなります。天鈿女命の「天」は美称、「命」は尊称、「鈿」が実名です。また息長足姫尊の「姫」と「尊」は尊称、「息長」は地名(氏名)、実名は「足姫」です。
そういえば、記紀にもずいぶん長い神名が見えます。古事記には「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」(あまつひだかひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)がでてきますが、これなどは一息に読むのさえ難しい長さです。
もっとも、「天津日高」「彦」「武」「建」「尊」などは敬称で、実名の部分は「波限建鵜葺草葺不合」(なぎさたけうがやふきあえず)だそうですが、敬称がなくても十分すぎる長さです。[*5-6]
●二字名は嵯峨天皇の時代から
長い名前は時代を下るにつれて少しずつ整理されますが、表記そのものが大きく変化したのは、嵯峨天皇(786~842)の時代だそうです。
唐風を極端に好んだ嵯峨天皇は、宮中の儀式や官服を唐風に変えただけでなく、大内裏の門には「建礼門」「承明門」、京都市中の一条には「桜花坊」、二条には「銅駝坊」など、門から町からすべて唐風に命名する徹底ぶりでした。人の名前も例外ではありません。漢字二字が唐風なのです。[*7]
●日本と中国の奇妙な関係
日本人の姓名はこのような経緯で二字姓、二字名が多くなりましたが、二字姓の由来を知ってみると、なんとも皮肉な話です。奈良時代の朝廷は中国風を重んじたはずでした。そのためにあえて地名を二字名に変更したのです。
わが国においては、その後、はからずも地名から名字が作られるようになりました。そして次第に名字が本来の姓に取って代わり、気がつくと、日本人の大多数が二字姓になっていたのです。
ところが、当の中国では圧倒的に一字姓が多いのです。中国に範を求めた韓国でも、姓は基本的に漢字一字です。[*8] わが国では中国風を重んじたばかりに、かえって中国風の一字姓から遠ざかってしまった、ということのようです。
それにしても、歴史の皮肉は繰り返されるものです。今度は日本人の二字姓が、熊﨑健翁氏の姓名判断に組み込まれて、中国(台湾、香港)に逆輸入されたのです。
そして、詳しくは別の機会に触れますが、二字姓を標準とした日本式の姓名判断を一字姓の中国人が利用するという、ますます奇妙な状況を生み出したのでした。[注2]
●二字姓、二字名を標準とする根拠はあるか?
以上をまとめると、二字姓や二字名が多いのは、地名から名字が作られたり、嵯峨天皇が始めた習慣が広まっただけ、ということになります。後は、これを根拠として、ニ字姓ニ字名を姓名判断の標準型と見なすかどうかでしょう。
ついでながら、お隣の中国では、このテーマに関連した事件が過去に起こっています。前漢末に王位を奪って新朝を起こした王莽(西暦8~23年)は、天下に一字名を命じました。
また、清朝(西暦1636~1912年)の統治者は満州族に対して二字名のみを特に許したそうです。[*9]
姓名判断的な名前の標準型が制度や習慣で影響を受けるとしたら、この時代の庶民は自分の運勢まで国家権力に制限・支配されたことになります。国家は庶民の運勢的不公平に対して、もっと配慮すべきだったのでしょうか。
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