姓名判断を批判する人々(7):井上円了
『姓名判断を批判する人々』を(6)まで読んだ人の中には、「おや?」 と思われた方もいるでしょう。「この中に絶対入っているべき、あの重要人物はどうした?」そうなのです、井上円了氏が出てこないのです。
もちろん、忘れたわけではありません。ただ、どんなに探しても彼の批判文書が見当たらないのです。
井上円了氏といえば、哲学館(現在の東洋大学)の創設者ですが、一般大衆の迷信を打破するために、全国を飛び回って神秘や怪異を実地に調査したことでも有名です。
●井上円了の妖怪(不思議現象)研究
『伝円了』(平野威馬雄著)によれば、「妖怪の実地調査に歩いた足跡は、北海道から沖縄まで、各府県市町村、無慮数千を数え、・・・席のあたたまる暇もなく東奔西走、文字通り社会国民の啓蒙に精根を蕩尽した」とのことで、この記述からも円了氏の徹底ぶりが伺えます。[*1]
そうした調査のいわば集大成が『妖怪学講義』で、「第四純正哲学部門」には当時のあらゆる占いが分類・批評されています。
ところが、この中に姓名判断が無いのです。不思議現象の研究に執念を燃やした円了氏のことですから、調査漏れや書き落としがあったとは考えられません。いったい、どういうことでしょうか。[*2] [注1]
『妖怪学講義』の第四純正哲学部門は明治26年から27年にかけての刊行なので、当時はまだ姓名判断が世間で知られていなかった可能性はあります。
しかし、奇妙なのは、それから10年後、妖怪叢書 第四編として刊行された『迷信解』(明治37年9月)にも、姓名判断についてまったく触れていないことです。[*3]
この時期には、すでに一人の占い師が「姓名判断」を新聞紙上で紹介(明治34年4月1日~連載)し、東京ではちょっとしたブームになっていました。著書も遺稿として出版(明治36年8月)されていました。これらが円了氏の目に留まらなかったとは考えにくいのです。[注2]
そこで、次のような推論が成り立ちます。「もし円了氏が姓名判断を少しでも信じていたら、妖怪学の研究テーマから除外しただろう」ということです。とほうもない推論ですが・・・。
●井上円了は姓名判断を信じていた?
理解に苦しむのは次の事実です。大正2年〔1913年〕に再版された『姓名ハ怪物デアル』(山川景國著)という姓名判断書があるのですが、驚くなかれ、ここに円了氏が題字(「按名知實」)を書いているのです。
「名を按じて(調べて、考えて)、実を知る」とは、なんとなく姓名判断を支持していそうな趣がありませんか? [*4]
しかも、この題字がどんな経緯で書かれたか、『運命誘導 姓名鑑定法』(山川景國著)にはっきりと記されています。
それによると、山川氏が自著の『姓名は怪物である』(初版)を円了氏に見せたところ、円了氏自身も名前が人間形成に影響を与えると考えており、山川氏の研究に興味を示したというのです。[*5] [注3]
さらに、『哲理之神秘』(松村光庸著、昭和11年)には、「井上円了が哲理派の姓名判断を研究していた」などという、とんでもない記述もあります。[*6] [注4]
あらゆる迷信を打破しようと全身全霊を傾注した円了氏が、姓名判断だけは認めていたなどとは、とても信じられません。小松和彦氏は『井上円了・妖怪学全集第6巻』の解説で次のように書いています。[*7]
もし円了氏が万が一にも姓名判断だけは例外的に信じたというなら、それこそ「真怪」 中の「真怪」ではないでしょうか。ここは彼の名誉のためにも、是非どなたかに真相を解明して欲しいものです。
※こちらも参照 ⇒ 『井上円了と姓名判断』
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?