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ストレート珈琲を味わうように

私が、珈琲に砂糖とミルクを入れて飲むことから卒業したのは、いつの頃だっだろうか。
きっかけはハッキリ覚えている。ある年下の女性とカフェに行った時、彼女が何も入れなかったので、確かに無駄なカロリー取らないし、何杯でも珈琲を楽しむことができるな、と納得した時だった。

彼女は主人の従兄弟で、病院で助産師さんをしている。今ではすっかりベテランで、白衣のポケットに手を入れて若い男の先生に指示を出したりして、カッコいいと、何かの理由で病院で彼女と会った主人が、家に帰って話していた。

確かに珈琲をストレートで飲む姿は、若いのにカッコよかった。
なりたい自分像をハッキリ持っている強さと、なんとなく重なるところがあって。あまり親しいわけでもないのに二人で珈琲を飲んだ経緯も、話した内容も全く覚えていないが、その事だけは鮮明にイメージにある。

私も珈琲をストレートで飲めるようになるのにそんなに時間は掛からなかった。それから本格的に珈琲が好きになり、豆にもこだわるようになり、珈琲そのものの味わいの奥深さを堪能できるようになった。


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ブログも珈琲だと思えばいいか。

またよそ見をして走り出し、ふと気がつくと疲れて沈んでいる。
今朝は、久しぶりにそんな気分だった。



私は、はてなブログでも書いている。
今年の元日、娘の協力を得て立ち上げた。

なんとか2021年元日という、サクッときりの良い日のうちに、
このブログ立上げというイベントを船出させたい。
ささやかではあるが、私にとって大きな一歩を今日中にやり遂げて、
やったぜと小さく拳を上げて達成感を得ると同時に、
やろっかなどうしようかなぁというグダグダな退路を断ちたい。


ネットもわからない自分が、世間に発信するなんて思いもよらなかった。
でもシンプルに書くことは楽しいし、読者さんから感想を頂き励まされたりすれば(才能あるんじゃないの!)って勘違いでもテンションが上がった。

最近知った。
考えに正解も不正解もないし、発言するのに自信の有無は必要ない。
こんな私の考えが世間様に通用するわけがないって、
先ず”通用”させる門はどこにあるのか。
”評価”する審査員はどこにいるのか。

始めた頃は、無心で発信するのが楽しかった。そのうち試行錯誤が始まり、狙うようになった。

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そして、慣れてくると数字が気になりだした。いいねの数、読者数の増減、PV数。

どこかで、「優秀じゃなきゃいけない」という無意識の信仰が私を苦しめた。
誰も見てないのに、自分で自分を追い込んでしまう。

忙しさと、この息苦しさから、一度はてなブログから距離を置こうと思い、投稿の間隔を空けることにした。
けれどやっぱり書くことが楽しくて、恋しい。

そこで、人知れず書いて、書きっぱなしにしておけばいいんだと思ってnoteを始めた。そのはずなのに、今また同じ息苦しさを感じている。自分で勝手に。


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私は、シンプルでいて味わいの深い珈琲が大好きだ。

私の好みは、自分ではっきりわかっている。酸味や苦味抑えめの、芳醇で口当たりまろやかで、それでいて深いコクがある珈琲。

それでいいじゃないか。

文章の好みも、自分ではっきりわかっている。はてなブログの時から、読者数の大きさと、私の好みの文章は全く比例しないと。

なぜ、美味しい珈琲に、砂糖やミルクを求めるんだ、自分。


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私のブログの原点はここにあったんだろう。
『この窓から見える景色』

※続く自粛生活の中で、動画を見たり本を読んだり、刺激を得ることはできたけれど、そのうち、巷に溢れ出す情報に気分が沈んでいった。
ぼんやりと外を眺められる窓が欲しくなった。

景色のいい窓が欲しい。
お誕生日に主人に「プレゼントは窓が欲しい」と言ったのは冗談だけど、
心の中で本気なんだよーと半ベソかいていた。
この衝動わかってくれる人がいらっしゃったらお友達になりたい。
 妥協案として、我が家の中で、最も景色の良い窓の、最も良いアングルを探し、
そこに心地良い椅子を奮発して買ってセットして、
とりあえず毎日そこで読書してたら、
なんとなく気持ちの虫が納得した。


この窓から眺めながら、心の中に湧き出す気持ちをただただ表現したい。
社会の荒波というものに、揉まれたこともない私だから、立派なことは言えないけれど、この窓からだこそ感じて描けるシンプルな文章があるはずだ。

私だからこそ淹れられるシンプルな珈琲があるはずだ。

焦らず、自分らしさを探し出す、そのプロセスを楽しもう。

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